維新政党日本

我が国日本の真正なる独立を目指します。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(九)新田義貞

   我が国の歴史上、吉野朝の忠臣として楠正成と並び称されるのは新田義貞(にったよしさだ)であります。義貞は上野国新田郡の人で、源義家十世の孫です。祖父の基氏より父の朝氏に至るまで、世々新田郡の世良田邑を領しておりましたから、新田を氏としたのでした。
 時に元弘三年(1333年)春、皇子護良(もりなが)親王は朝廷を回復せんとして吉野山に依り給い、楠正成は千早城に籠りました。そして鎌倉幕府執権の賊将、北条高時は兵を挙げてこれを攻めました。その時義貞は賊軍に従って千早城攻めに赴いておりましたが、よくよく思えば皇室のために忠義を尽すは正にこの時なりと覚り、家臣船田義昌に謀り、勤皇の旨を護良親王に申し上げ、その令旨を得ました。そこで直ちに病と称して本国へ引返し、それより一族子弟集まり北条高時を討たんことを謀り、遂に兵を近国に募りました。二万余人を以て敵将櫻田貞國と入間川にて戦い、久米川にて討ち、これを破りました。その時、高時の弟泰家が将として来り攻めましたので、義貞は一時敗北しましたが、折しも相模の人三浦義勝来り援けましたから、進んで泰家の軍を破り、鎌倉まで迫りました。遂に北条高時、その勢い尽きて葛西谷に逃れ、一族と共に自殺したのであります。その間、義貞が軍を起こしてより、わずかに十五日でありました。
 この鎌倉討入りの日は一日に六十五回も戦いましたが、北条氏の兵数万人で極楽坂の上を守り、多くの戦艦を海岸に連ねて、容易に近づくことができませんでした。その時義貞は馬より降りて稲村ヶ崎の海に臨み、冑を脱いで伏し拝み、腰に佩(は)いている金装の刀を海に投げ入れました。さすれば海神、その忠義を感じたるか、その明け方に潮退きて砂原露われ、敵の舟悉く沖合に漂い去りましたから、大いに神助と叫び、衆を差招いて海岸より直ちに鎌倉に入りました。そこで坂を守る兵たち、大いに驚き畏れて逃れましたから、義貞大勝利を得て、高時を滅ぼしたのでありました。
 この勝報を早速朝廷に奏上したところ、後醍醐天皇大いに喜び給い、義貞に左馬助を授けられ、建武元年には従四位上に叙し、左兵衛兼播磨守に任じ、上野播磨二国を管轄して、御所を護らしめ給うたのであります。
 然るに、その後天皇足利高氏を寵愛して、重く用いてその言を聴かれましたが、建武二年(1335年)秋、北条高時の遺子時行が鎌倉に兵を起こしましたから、高氏は命を奉じて鎌倉を攻め、それより朝命を拒んで謀反するようになりました。そこで義貞は大将軍となり諸将と共に京都を発し、高氏を討ちましたが、高氏はこれを聞きて途中で迎え討ちました。互いに一勝一敗あり。しかし不幸にも、その頃諸国反して高氏に応じましたから、義貞は止むなく京都に引返しました。そして延元元年(1336年)に高氏大挙して京都に迫りましたから、義貞等これを迎え討ちました。これまた一勝一敗、最後には高氏を筑紫に追いやりました。
 然して幾ばくもなく、山陰山陽諸国、復た高氏に応じましたから、義貞は命を受けてこれを征伐しに播磨に向かいました。その時分に、高氏は弟直義と共に海陸に分かれ、大挙して攻め上りました。これが為に、楠正成は湊川に戦死し、義貞は奮戦して僅かに危きを逃れ、それより高氏と京都付近に戦うこと数十回に及びました。
 衆寡敵せず、天皇高氏の降を納れ京都に還り給うこととなり、義貞を慰め諭して、一時北国に逃れて時を待てと勅せられましたから、義貞は止むなく、皇太子及び尊長親王を奉じて北国に向かいました。ようやくにして敦賀に至り、金崎城に入り、以来敵将足利高經の大軍と戦いました。一時大勝を得て、京都を救わんとしましたが、未だ及ばずして黒丸城を取らんと図りました。然るに高經、これを聞き驚きて兵備を敷き、平泉寺の僧兵もこれに応じましたから、義貞不幸にも戦い敗れました。
義貞は高經の歩卒三百人に乱射せられ、馬は溝の中に倒れました。義貞起き上がらんとして額に流矢が当るや、その逃れる能わざるを知り、自ら首を刎ねて自決しました。時に年三十八、延元三年(1338年)閏七月二日でした。朝廷その忠烈を嘉して、後に贈位して、厚くこれを祀らるるに至ったのであります。(下は稲村ヶ崎奉刀の図)

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九条「加憲」の不可解

   安倍首相は、憲法九条の一項と二項を残しつつも、新たに付け加えた三項で自衛隊の存在を明記すると言っているが、何がしたいのか全く意味不明である。

   周知の様に九条二項は、我が国の戦力不保持を明記しているが、この規定を温存したまま三項で自衛隊の存在を明記するということは、すなわち自衛隊は「戦力」ではなく、「必要最小限の実力」であるというこれまでの政府解釈を踏襲するということだ。

   しかし戦力でない軍隊など存在し得ないのであるから、これは自衛隊の「国軍化」を掲げたこれまでの自身の主張や自民党改憲草案とも明らかに矛盾するのみならず、自衛隊が軍隊としての抑止力ではない事をわざわざ内外に宣言し、さらには日夜公務に精励する自衛隊諸君の名誉を傷つけ、士気を阻喪せしめる愚行であると言わざるを得ない。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(八)楠正行

   楠正成が湊川へ出陣する時に、桜井の駅にて想いを託し、別れを告げた人物があります。それが小楠公と呼ばれる、正成の子、正行(まさつら)であります。正行は正成を送って桜井の駅まで出ましたが、正成はそこより河内の郷里へ引き返らせました。そして最後の教訓として、再び兵を挙げて王室の為に勤むべきことを誡め、後醍醐天皇より賜わりたる菊作りの刀を授けたのでありました。
 かくして正成はその言の如く遂に戦死をしましたから、正行は父の後を追って、自殺せんとしました。しかし、母より諭されて、かえって大いにその志を励まし、爾来文武の道を講じて、勤皇の秋を待ちました。
その年冬、後醍醐天皇再び都を逃れて大和国穴太に行幸せらるるや、正行はその一族和田正朝と共にこれを助け参らせ、車駕を護って吉野山へ入り、河内紀伊の将士を集めて大いに勤皇の旗を翻しました。
   天皇は正成の王事に殉死したことを想い給い、正行を正四位下に叙して帯刀と為し、後には父正成の任官しておった検非違使左衛門尉に任じて、河内守を兼ねしめられました。ところが、幾ばくもなく天皇崩じ給い、群臣大いに勇気を落とし、早くも逃れ去らんとしました時に、正行は和田正朝と共に兵士二千を率いて吉野を守りましたから、群臣大いにその心を安んじました。それより正行は、後村上天皇の御為に力を尽して賊を防ぎ、またしばしば出でて敵を破りました。
そこで賊将足利高氏大いにこれを憂え、その一族高師直、師泰等をして兵六万の将として正行を攻めしめたのであります。その時正行は、勝敗の決今日にありと一族百四十余人と神水を啜り、共に死を誓いて行宮に詣で、天皇のかたじけなき勅を拝しました。そして吉野を出でんとするや、後醍醐天皇の廟所を拝し、同盟決死の一族の名を如意輪堂の過去帳に書き連ね、壁板に鏃で歌を書き留めました。

返らじと かねて思へば 梓弓
なき數にいる 名をぞ留むる
(意訳)
放たれた矢の様に、再び帰ることはないと心に決めた出陣なので、それらの者達の名をここに書き留めていく。

 かくして、正平三年(1348年)正月、高師直の大軍と戦い、奮闘して一時師直を獲んとしましたが、不幸にも衆寡敵せずして、四條畷にて討死しました。時に年二十三でありました。世人これを惜しまぬ者はなかったのであります。
 ここにもう一つ正行の有名な話があります。正行が一日行宮へ詣でんとする時、道中にて敵将高師直が宮女弁内侍を誘い出し、兵卒を遣わして無理にこれを迎えんとしておりましたから、正行は直ちに進んで悉くその卒兵を斬り伏せ、内侍を救い吉野へ送り返しました。そこで後村上天皇大いにこれを誉め給い、内侍を正行に賜わんとしました。ところが正行はこれを辞謝し、次の歌を詠んだといいます。
 
とても世に ながらふべくも あらぬ身の 假の契りを いかで結ばむ
(意訳)
この世に長くは生きていられないであろう私が、どうして結婚することなどできましょうか。

その志、真に健気にして潔しと言うべきであります。この歌の通り正行は吉野朝の為に戦死して、国事に殉死しましたから、明治十年には勅して、従三位を贈り給い、三十年には従二位を贈られました。今はその戦死の場所なる四條畷に神社として祀られ、父正成の湊川神社と共に永くその霊を慰められているのであります。(下画像は桜井の別)f:id:jpip:20170608075312j:image

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(七)楠正成

   楠正成(くすのきまさしげ)は、河内の人で、先祖は橘諸兄公(聖武天皇の御代の左大臣)で有名な橘氏であります。父の正康がその妻と共に志貴山の多聞天に祈って、正成を授かりましたので、幼名を多聞丸といいました。出生この様に奇しく、つとに将略の才に長じ、人に優れておりました。しかし河内に土着しておりましたので、あまり世に知られずにいました。
 時に元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は、鎌倉の執権北条高時が大兵を差し向けて都を攻めたので、それを避け給いて大和の笠置寺行幸されました。然るにその頃、天皇の為に力を尽して御難を救わんとする者がありませんでした。天皇大いに憂慮し給うておりました、そんなある夜に、まどろまれた天皇は一つの不思議な夢を御覧になりました。
 その夢というのは、紫宸殿の前に一つの大なる樹があって、その南方に当る枝が最も栄えておりましたから、天皇はやがてその枝の下に玉座を設けて百官を召集えられました。然るに忽ち、童子が何処ともなく御前に来り跪いて、玉座を指さして泣きながら奏しあげて曰く、今や天下はどこにも陛下を容れ給うところはないが、ただこの座ばかりが御安泰に在らせ給うことができるのみ、と。
 こういう夢を見給うて御目が覚めたのであります。そこでいかなる夢告(しらせ)かと親しくこれを占い給うたところ、まず木の偏に南というは楠である、されば楠を以て氏とする者があって、朕を助け目下の危難を救うであろうということが分かりました。天皇はすぐに寺の僧快元を召し給い、この辺に楠を以て氏とせるものがあるか問わせられました。快元はこの辺に楠正成と申すものがありまして、武略大に優れたる名将でありますと御答え申した。これを聴き給うたる天皇は大いに悦ばせ給い、すぐに藤原藤房を使として送らせられました。
藤房、河内の金剛山にいます正成を訪ね、御前へ出るように御命じになりました。正成は悦び勇み、藤房に伴われて行在所へ詣でましたところ、天皇は万事を汝に託すぞと宣べ、且つ賊兵を防ぐための謀を問わせ給いました。そこで正成は感泣して、一々これに御答えを申し上げ、成敗は兵家の常であれば僅少の敗軍のために聖慮を煩わすこと勿れ、臣(私)の存する限りは必ず敵を討ち平らげて御覧に入れましょうと誓われました。行在所を去りて、帰って赤坂城を築いて戦い、後には金剛山に立てこもりました。常に鎌倉方の百万もの兵に対して、わずか千余人の兵を以て敵を悩まし、北条氏をして奔走に疲れしめたので、その隙に新田義貞が鎌倉へ攻め入り、難なく北条氏を滅ぼすことができたのであります。ここに車駕(天皇が乗られる車)はめでたく京師へ還り給うこととなったのです。世にこれをもって、建武中興の大業と申すのであります。
然るにその後、足利高氏が朝廷に背きました。楠正成等のために一度は破られて九州へ逃げましたが、再び五十万からの大軍を率いて攻め上ってきました。正成は七百の兵を以て湊川に陣して好戦しましたが、衆寡敵せず、前後より敵を受けて遂に戦死したのであります。享年四十三でありました。天皇大いにこれを悼み給い、正三位左近衛中将を贈られましたが、明治に至りて更に位を贈られました。これ皆その精忠を誉めさせられたのであります。
   ここに正成が湊川に陣するに至った有名な話があります。正成が湊川に陣したのはその本意ではありませんでした。正成は一度京師を離れ、高氏を京師に誘い入れ、新田義貞と共に挟み撃ちにすることを謀り、進言致しましたが、他の公家たちに退けられ、用いられなかったのです。然るに正成は勅命を畏み、死して後已むの精神を以て、その尽くすべきところを十分に尽くしました。その間に一点の曇れる所のなきが、即ちその正成の至誠の致すところであります。
   されば討死の時に、弟正季と刺し違えて死にましたが、その際、正成が弟に向かい、汝は死して如何にするかと問われました。すると正季、願わくば七たび人間に生れて国賊を鏖(みなごろし)にせんと答えましたところ、正成は欣然として、それこそ我が思うところであると言って自決しました。生き残る一族十六人、従士五十余人、悉くその主正成に殉し自決して相果てたのであります。これ実に団結の強固なるを示せるもので、また以て、正成平生の撫育の一方ならぬを察することができます。
   後世、勤皇家といい尊皇愛国の精神に富める人といえば、直ちに正成を第一に挙げますのは全くかかる危難の際に当り、その純潔至誠の行動を為したからであります。

「憲法記念日」にあたって

   憲法記念日の今日は、戦後憲法が施行されてから七十年の節目である。安倍自民党は、改憲への意欲を改めて示しているが、その眼目は九条二項の改正による集団的自衛権の解禁と「日米同盟」の強化である。しかし、先般の安保法制によって事実上、九条二項は骨抜にされたのだから、いまさら改憲する必要もないだろう。

   戦後憲法の問題というと、よく空虚な「平和主義」が取り沙汰されるが、最大の問題は「国民主権」である。国民は主権者ではなく、主君たる天皇に仕える臣民である。したがって主権者でない国民に憲法を制定する権力はなく、憲法制定は天皇大権である。自民党を始め、我が国における自称保守政党は、あくまで国民主権を堅持し、国民投票による改憲を推進しているが、何れも国体の本義を理解していない証拠である。

   また自民党は、自衛隊の「国軍化」を謳っているが、何を以て「国軍」となすのか定かではない。単に機能的に自衛隊の行動範囲を「ポジティブ・リスト」から「ネガティヴ・リスト」に変更するだけでは、「国軍」とは言えない。我が国の「国軍」は、天皇を大元帥に戴く「皇軍」であって、真の「国軍化」とは、統帥権天皇に奉還して建軍の本義を正すことに他ならない。

   現在各党が憲法草案をまとめているが、如何なる現代の叡智を以てしても、大日本帝国憲法に優る憲法は出来ないと考える。現代の浅薄な価値基準で下手なものを作るよりも、祖宗の遺訓に立ち返るべきだ。

   また、現行憲法は戦後の占領下でアメリカに強制されたものであり、国民主権政教分離など、本来天皇主権、祭政一致の我が国体とは根本的に相容れない内容であることは確かであるが、かりそめにも先帝陛下が御裁可遊ばされた憲法を無効といって破り棄てることは出来ない。

   したがって、我々がなすべきは、国民投票による憲法改正ではなく、現行憲法の廃止を陛下に奏請して御裁可を仰ぎ、大日本帝国憲法を復活せしめることである。それ以外に方法は無いと考える。

朝鮮学校への補助金打ち切りについて

全国地方自治体による朝鮮学校への補助金打切りが相次いでいる。千葉市でもリベラル派と目される熊谷市長ですら、打ち切りを決断した。至極真っ当な判断だ。金主席を礼賛し、慰安婦など我が国の「侵略」責任を断罪する教育をするなら、我が国民の税金ではなく、北朝鮮の国費でやればいい。それに我が国は北朝鮮と国交がないのであるから、事実上の北朝鮮大使館である朝鮮総連や、その付属機関である朝鮮学校が我が国の主権下に存在すること自体がおかしい。断固排除すべきだ。

https://news.yahoo.co.jp/feature/589

主要農作物種子法廃止に抗議する!

結局、今国会で主要農作物種子法廃止法案(通称「モンサント法案」)は、メディアを通じた議論がほとんどなされないまま、あっさり可決されてしまったようだ。この種子法廃止によって、これまで都道府県に義務付けられてきた、稲、麦、大豆といった主要作物の種の生産や普及は根拠法を失い、民間企業の参入が加速すると思われる。問題なのは、この民間参入の拡大によって、モンサントなどの巨大外資が我が国に「高生産性」を売りにした遺伝子組み換え種子などを持ち込み、食の安全性を脅かすのみならず、種子への「特許権」を通じて、我が国の農業を実質的に支配する可能性があることだ。

どうやら、この国民のほとんど誰も知らない種子法廃止を提言したのは、首相の諮問機関である「規制改革推進会議」及び「未来投資会議」のようであるが、そのメンバーを見ると、むべなるかな、竹中平蔵を始め、小泉構造改革の残党、グローバル資本の走狗と化した売国新自由主義者達が名を連ねている。彼らの狙いは、国家の戦略物資である種子、さらには国家独立の根幹である農業をグローバル資本に売り渡すことに他ならない。またその策動に乗った安倍政権もまた「売国政権」の汚名を免れない。断固抗議する。