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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十一)名和長年

   名和一族は伯耆国(現在の鳥取中西部)の人で、代々地頭をしており、資産豊かにして一族盛んでありました。その中で生まれた長年、初めは長高と名乗っておりました。幼い頃より勇健でよく弓を射ましたから、その国の人に畏れられておりました。
 元弘三年(1333年)、後醍醐天皇隠岐に流され給うや、天皇は衛士の中で忠義を尽していた者に、近国に大事を託すべき者は誰かと、問わせられました。衛士はいずれも長年を第一として挙げました。時に長年の弟行氏も衛士中におりましたから、天皇これを召し、帰りて長年を諭して車駕を迎えさせしめよと、申しつけられました。
 そこで行氏は、千種忠顯と共に海を渡りて伯耆に到り、命を伝えたところ、長年これを聴きて涙を流して曰く、天子よりかかる大事を託せらるるというは家門の栄誉これに過ぎたるものはなしと、直ちに命を奉じて、衆を率いて天皇を迎え奉りました。
 天皇と共に船上山へと赴いた長年は、村の民を募り、己が倉の穀物を山上に運ぶ者には人毎に銭五百を給すと令し、その日に五千余石を山上に運び、決死の覚悟を定めて己が家を焼き払い、一族百五十人を率いて山上を守りました。そこで長年、近国将士の旗印を描き、諸国より来たり集まったが如くに見せかけました。
 その所に、佐々木清高、昌綱の両人、兵三千を率いて攻めましたが、山上の旗印を望んで驚き、敢えて進みませんでした。しかし、実際に兵は少なかったので、長年は家人に令し、皆に木陰に隠れさせて、矢を射らしめて、日暮れを待ちました。その時放たれた矢は命中せぬものはなく、敵将昌綱はその矢に当って死にました。また、敵将清高攻めて来たところ、長年は弓で四人を射殺し、折しも起れる雷雨に乗じ、敵軍に突撃しましたから、賊軍大いに崩れさり、死する者は数知れず、清高も命からがら逃れました。
 ここにおいて近国の将士来り集り、遂に京師回復の大挙を図るに至りました。天皇は長年の大功を賞し給い、長高という名は危うしとして、長年と改めしめ、左衛門尉兼伯耆守に任じ、家の徴として、帆舟を天皇親ら描きてこれを賜いました。これは船上山の名と隠岐を逃れ給うた記念として、かく筆を染め給うたものであります。
 幾ばくもなく、足利高氏鎌倉に反し、新田義貞これを征討することとなるや、長年は楠木正成と共に留まりて京師を守り、高氏が京師を犯せる時には、長年は兵二千余人を以て勢多の橋を守っておりました。然るに官軍敗れ、車駕延暦寺に御幸されると聞き、長年兵三百を以て京師に帰りましたところ、賊等その帆舟の徴を認めて遮り撃ちました。これと戦うこと数十回、ために死する者半数に達しました。漸く禁門に詣でたところ、宮中に人無きを見て長年は振り返って涙を流し、遂に行在所に詣で、諸将と力を合わせて高氏を討ち、車駕を奉じて京師に入りました。
 ところが高氏、再び来り攻めましたから、またもや車駕を奉じて延暦寺に従い、高氏の兵が東坂を犯すや、長年は脇屋義助と共に撃ちてこれを退け、新田義貞と共に高氏を京師に攻めました。
 長年が白鳥という所を過ぎる頃、路傍の人相語りて曰く、三木一草の中、僅かに一木のみ残って居ると。(三木は結城「キ」、伯耆「キ」、楠木「キ」の三人のこと。結城は結城親光伯耆伯耆守である名和長年、楠木は楠木正成。一草は千種忠顯のこと。)これを聞いた長年は、戦い利あらずと一旦退き、自らの門を背にして奮闘し、従弟信貞および一族二百人と共に戦死したのであります。
(下は長年と名和氏の家紋)