日本独立党

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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(八)楠正行

   楠正成が湊川へ出陣する時に、桜井の駅にて想いを託し、別れを告げた人物があります。それが小楠公と呼ばれる、正成の子、正行(まさつら)であります。正行は正成を送って桜井の駅まで出ましたが、正成はそこより河内の郷里へ引き返らせました。そして最後の教訓として、再び兵を挙げて王室の為に勤むべきことを誡め、後醍醐天皇より賜わりたる菊作りの刀を授けたのでありました。
 かくして正成はその言の如く遂に戦死をしましたから、正行は父の後を追って、自殺せんとしました。しかし、母より諭されて、かえって大いにその志を励まし、爾来文武の道を講じて、勤皇の秋を待ちました。
その年冬、後醍醐天皇再び都を逃れて大和国穴太に行幸せらるるや、正行はその一族和田正朝と共にこれを助け参らせ、車駕を護って吉野山へ入り、河内紀伊の将士を集めて大いに勤皇の旗を翻しました。
   天皇は正成の王事に殉死したことを想い給い、正行を正四位下に叙して帯刀と為し、後には父正成の任官しておった検非違使左衛門尉に任じて、河内守を兼ねしめられました。ところが、幾ばくもなく天皇崩じ給い、群臣大いに勇気を落とし、早くも逃れ去らんとしました時に、正行は和田正朝と共に兵士二千を率いて吉野を守りましたから、群臣大いにその心を安んじました。それより正行は、後村上天皇の御為に力を尽して賊を防ぎ、またしばしば出でて敵を破りました。
そこで賊将足利高氏大いにこれを憂え、その一族高師直、師泰等をして兵六万の将として正行を攻めしめたのであります。その時正行は、勝敗の決今日にありと一族百四十余人と神水を啜り、共に死を誓いて行宮に詣で、天皇のかたじけなき勅を拝しました。そして吉野を出でんとするや、後醍醐天皇の廟所を拝し、同盟決死の一族の名を如意輪堂の過去帳に書き連ね、壁板に鏃で歌を書き留めました。

返らじと かねて思へば 梓弓
なき數にいる 名をぞ留むる
(意訳)
放たれた矢の様に、再び帰ることはないと心に決めた出陣なので、それらの者達の名をここに書き留めていく。

 かくして、正平三年(1348年)正月、高師直の大軍と戦い、奮闘して一時師直を獲んとしましたが、不幸にも衆寡敵せずして、四條畷にて討死しました。時に年二十三でありました。世人これを惜しまぬ者はなかったのであります。
 ここにもう一つ正行の有名な話があります。正行が一日行宮へ詣でんとする時、道中にて敵将高師直が宮女弁内侍を誘い出し、兵卒を遣わして無理にこれを迎えんとしておりましたから、正行は直ちに進んで悉くその卒兵を斬り伏せ、内侍を救い吉野へ送り返しました。そこで後村上天皇大いにこれを誉め給い、内侍を正行に賜わんとしました。ところが正行はこれを辞謝し、次の歌を詠んだといいます。
 
とても世に ながらふべくも あらぬ身の 假の契りを いかで結ばむ
(意訳)
この世に長くは生きていられないであろう私が、どうして結婚することなどできましょうか。

その志、真に健気にして潔しと言うべきであります。この歌の通り正行は吉野朝の為に戦死して、国事に殉死しましたから、明治十年には勅して、従三位を贈り給い、三十年には従二位を贈られました。今はその戦死の場所なる四條畷に神社として祀られ、父正成の湊川神社と共に永くその霊を慰められているのであります。(下画像は桜井の別)f:id:jpip:20170608075312j:image