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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(二十)菊池武重と武光

   前回は菊池武時についてお話しました。今回はその長子武重と八子武光です。武重と武光とは武時の十五人の息子の中で最も秀でておりました。
 
武重は肥後守を任じ、後に左京大夫となりました。元弘三年(1333年)、父武時が義兵を挙げて鎮西探題北条英時を討つため博多に行き、そこで敗れたことは前回お話いたしました。武重は父と共に果てることを望んでおりましたが、父武時はそれを許さず、武重に国に帰り皇恩に報いることを命じました。武重は涙を呑んで父の命を奉じ、陣中を突破して国に帰り、再挙を図りました。

その後、北条側に寝返った少弐貞経北条英時と不仲になり、遂に兵を起こして討伐し、使者を武重の許に遣わしてその由を告げました。その時武重は「彼れ貞経は初め我が父と共に勤皇を謀りながら後、約に背きて我が父を討ったのである。されば我れ今其の仇を報うべきなり」と思い、その使者を斬りました。

やがて建武の中興が成り、その後足利氏が背くようになりました。武重は鎌倉に出て足利直義と箱根に戦い、足利高氏が京師を攻めれば、新田義貞に従って戦いました。官軍側、遂に劣勢に陥り、やむなく車駕が延暦寺に向かわれることになるや、武重もこれに従ったのでした。

後に後醍醐天皇が高氏に欺かれて京師に還り給うた時、武重も囚えられましたが守衛者の隙を伺い逃げました。延元二年(1337年)、一色氏範が攻めてくるのを知り、兵を集めて阿蘇宮司宇治惟澄と共に迎え討ちました。ついで賊軍を合志城に囲んで打ち破ったのでした。武重はこのように父の遺志を受け継ぎ、勤皇の軍を起こして戦い続けたのでありました。

第八子武光は武重の後を継いで肥後守に任ぜられ、また肥前守ともなりました。父兄の志を継いで、専ら心を皇室に存し、後醍醐天皇懐良親王を征西将軍として筑紫に下されたのを武光はすぐにお迎え申し上げたのでした。興国年中には大友氏尚、少弐頼尚等と兵を交えて連年これに勝ち、正平十三年には一色直氏並びにその弟範光を筑前に討ちました。武光の名声皆の聞くところとなり、遂に大友少弐の賊も屈服しました。

その後も武光は畠山国久を破り、少弐頼尚を退け、賊軍を幾たびも敗走せしめました。時には衆に寡を以て制し、また時には謀略にあっても奮然として起ち上り膺懲しました。常にご皇室を尊崇し、時には親王様を奉じて奮闘し、ただひたすらに皇国の御為に戦い抜いたのでした。下画像は菊池武重肖像