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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(二十二)村上義光と其の子義隆

村上義光は信濃(現在の長野県)の人で、源氏の末裔です。元弘の乱の際には子の義隆、赤松則祐、平賀三郎等と共に護良(もりなが)親王に従い、大和国十津川へと逃れたのでした。

 

時に熊野別当定遍という人が護良親王を捉えようとしていたので、親王吉野山に入られようとしておりました。しかし、土民の芋瀬(いもせ)荘司等が兵を以て遮りました。そこで親王は従者を遣わして荘司を諭そうとされました。すると荘司曰く「今や熊野別当官軍の党与を求め、その名を録して之を鎌倉に報して居る際で臣等は迚も親王を迎へ納るることは出来ません。然し親王の前行を留むることもしませぬから、願わくは錦の御旗か近臣一両人を留めて其の証としたまはんことを(幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ)」と望みました。その時赤松則祐は「臣留まり死せんのみ」と言い、平賀三郎は「一人にてもこの場合従者を失うべからず」と反対しました。親王は遂に決して錦旗を渡して、ようやく虎口を逃れることができました。

 

この時村上義光は親王に遅れをとり後ろから追いかけておりました。その途上、荘司の衆が錦旗を掲げ還っているところに遭遇し、大いに驚いて旗を奪い取りました。荘司は義光の武勇に恐れ驚き、逃げ去りました。義光は親王に追いつき錦旗を渡したところ、親王には大いに喜ばれました。吉野に到るや城を築き、錦旗を守られました。

 

ところが敵の勢力は益々盛んでありましたから、遂に吉野山にまで大兵が押し寄せてきました。城はすぐに落とされ、親王親ら出て戦われること数回に及び、遂に退き給いました。その非運を歎かれた親王は歌を詠われました。一方、義光は鎧にたくさんの矢を受け、それはまるで虫の毛のようでありました。義光は親王の下へ来り跪いて曰く「臣今まで中城にあつて拒ぐこと数時間でありましたが、偶々城中に歌声が聞こへましたから、かくは参りました。然し賊勢は中々盛んでありますから、この城は迚も支へることは出来ません。それで臣は大王の御鎧を賜はり、大王に代わりて戦死しまする。願はくば大王其の間に遁れ去りたまはんことを」と。その時、親王曰く「死すならば同じく倶に死せんことこそ思へ、汝を棄つるに忍びんや」と。これを聴いた義光は声を励まして曰く「大事を図る者がそのような御心掛ではどうなりますか」と。言いも終わらないうちに、起って親王の鎧を解きました。そこで親王顧みて宣わく「義光よ、汝の忠誠は予が生を易へても忘れぬ所である。予若し免るることを得たならば、厚く汝の冥福を修めよう。また不幸にして免るることが出来なければ、地下に従ふことであろう」と。遂に思い残してその場を行かれました。

 

そこで義光は親王の鎧を被り高殿に登りました。後ろには子義隆もついてきていました。そこで義光は子義隆を諭し、親王を守るよう行かせました。親王の姿の遥か遠くなれるのを望み、賊軍に向かって大声で曰く「今上の第三子護良引決す。汝等行行天の誅戮を受けん。予が今自刃するを見て法と為せ」と。即ち腹を切り、腸を抜いて、それを壁に擲って倒れました。そこで賊達は四方より集まって、その首を斬って囲みを解き、遂に去りました。

そして義隆は親王の後を追い、吉野執行岩菊丸の兵数百人を遮り止め、親王を先に行かせ、自刃して果てたのあります。時に年十八でありました。

 

村上義光と義隆、その身を致して至尊に酬え、尊皇の誠を天に捧げたのありました。
写真は水野年方筆「村上義光芋瀬ニ綿旗奪返ス図」f:id:jpip:20171103152931j:image