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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(二十四)佐々木高頼と僧光兼

前回は毛利元就についてお話いたしました。その元就がご皇室の大祭挙行の費用を献じたことは前に述べましたが、それ以前、応仁の乱後の朝廷は実に衰微を極めておりました。また足利氏も幕府の威勢衰えて、公事大礼の費用を献ぜぬために、すべての儀式を挙げ給うことかなわず、僅かに文明七年(1475年)正月に四方拝の式を挙げ給うたのみでありました。

されば明応九年(1500年)、後土御門天皇崩御されるや、葬礼を行うべき費用がない時に佐々木高頼がその費用を工面いたしましたから、無事に泉涌寺に送り奉ることを得ました。これを賞して、高頼には菊桐の御紋と後光厳院宸筆の三略秘抄とを賜い、昇殿を許されたのであります。

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後に後柏原天皇、位を嗣ぎ給うても費用が足りず、即位の礼を行い給うこと能わずにおられた。かくして二十年後に至り、本願寺の僧光兼が黄金一万両を献じたために、大永元年(1521年)に初めて大礼を行わせ給いました。その功により光兼は門跡に准せられたのであります。

またその後、後奈良天皇の朝には内大臣三條西実隆(さんじょうにしさねたか)が百方苦心して輔け奉り、諸国の豪族に使をして数石の米と数両の金とを得て僅かに御膳を供することを得たのでありました。

このように朝廷の衰微極まり、上下の分の乱れること甚だしき戦国の世にあたって、高頼と光兼の志は実に賞すべきものであります。