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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(二十六)織田信長

織田信長内大臣平重盛の末裔を自称し、備後守信秀の次男として尾張に生を享けました。父信秀は武略があり各地を攻略し、天文三年(1534年)に信長を挙げたのでした。ところが信長は幼き時より豪胆にして細節に拘泥せず、世の人は信長を愚者として見ておりましたが、二十歳に至り遂に父の後を承けて尾張の国主となりました。信長慨然として天下を平定することを己が任とし、永禄三年(1560年)には今川義元桶狭間にて破り、その威名を天下に轟かせました。

そこで正親町天皇は密かに使いを遣わして、天下の乱を平定することを信長に託されました。その時信長は謹んで御請をなし、「今や大国雄藩少なしとせぬに、特に小邦の臣信長に宣命を賜うというは何の光栄かこれに過ぎたるものがありましょう。まず近江美濃を略し、然る後に京畿を治むることと致しましょう」と、使者を饗して帰しました。そして、永禄七年より数年間戦闘功伐して美濃を取り、十一年には将軍足利義昭は使いを遣わし、信長に逆賊を討ち京師に帰ってくることを請うたので、信長は軍を率いて近江に入り、十八城を抜き、遂に近江を平定して京師に上りました。それより更に兵を率いて摂津・河内を平らげましたので、詔して左兵衛督に任命せられました。しかし、信長はこれを辞退したので、従五位下に叙し、弾正忠に任ぜられました。

かくして将軍義昭は信長を管領とせんとし、朝廷にては副将軍たらしめんとせられましたが、信長は皆固辞して受けず、爾来近畿の平定に努め、その間に義昭のために二條の屋敷を経営し、また朝儀の衰えを憂いて皇居を造営せんと欲し、その準備として律令を考え、法度を定め、但馬・伊勢を平定し、元亀元年には正四位下に叙されました。同年朝倉義景を越前に討ち、また浅井長政と近江に戦い、翌年延暦寺の僧兵と戦いて屠りました。さらに天正元年には将軍義昭が信長を攻めましたので、戦いてこれを破り、次いで朝倉義景浅井長政を誅し、二年三位参議に任ぜられ、三年武田勝頼を滅ぼし、入朝して天盃を清涼殿に賜い、詔して権大納言に任じ、六年には累進して正二位に進んだのであります。しかるに間もなく、不幸にもその臣明智光秀のために本能寺に弑せられ、その業未だ成らずして没したのは誠に惜しむべきの至りでありました。信長の薨じたのは四十九歳、太政大臣従一位を贈られ、この世を去りました。

信長の子女には信忠を始め男子十二人、女子十一人ありました。その中長子信忠は信長が本能寺に弑せられた日に二條城にあって明智勢に攻められ、殺されたのでした。二子信雄、三子信孝は後に大いに名を成したのであります。

なお、信長の勤皇事績としては、宮殿造営の他、丹波の国において供御田を若干置き、公卿の采地の諸地頭らに侵されたものを、それぞれ本主に還付せしめました。特に伊勢神宮の久しく改造なく、大破に及んでおるのをみて、大いにこれを嘆き、三千貫を供えてこれを改造し、それより二十年目毎に改造する旧制を復して正遷宮の儀を行ったのであります。いかにも精忠の至りであります。

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