維新政党日本

我が国日本の真正なる独立を目指します。

政策解説 その1天皇を元首に戴くとは

政策解説 その1天皇を元首に戴くとは
 
我が国日本の国体原理の根幹を成すのは、天照大神天孫瓊瓊杵尊に授けられた天壌無窮の神勅である。この神勅に示されたのは、我が国の唯一無二の主権者が天照大神の御子孫である天皇陛下であり、我が国の本然たる姿が天皇親政であるということである。
 
初代神武天皇が、親ら皇軍を率いて東征され万機を統べ給うたように、我が国の原点は天皇親政である。しかしながら、時代が下ると蘇我氏藤原氏が大政を壟断し、保元平治の乱以降は、兵馬の権が武門に移行し、天下の権柄は幕府に簒奪されてしまった。幕府は表では朝廷を敬いながら裏ではこれを遠ざけ、天子を御所に押し込めると共に、国民を覇道で虐げた。
 
そこで、こうした門閥貴族や幕府勢力を打破し、一君万民の国体を顕現しようとして起こったのが「維新」であり、それは大化の改新しかり、建武新政しかり、明治維新しかり、全ては天皇親政への回帰に他ならなかった。明治維新の本質的意義は、保元平治以来700年近くに亘って武家に奪われていた兵馬の権を朝廷が王政復古によって取り戻し、天皇親政を敷いたことにある。たしかに国史上、天皇親政が実現されたのは、古代を除けば、建武中興などわずかの期間に過ぎない。しかし問題なのは長さではなく、建国の原理であり本質である。
 
天皇親政といっても、それは天皇独裁でも天皇専制でもなく、むしろ逆に民を大御宝として慈しむ仁愛の政治である。仁徳天皇の民の竈の故事に象徴されるように、歴代の天皇は常に国民に寄り添い、国民の苦楽を以て御自らの苦楽となされた。天皇と国民は君臣の関係であると同時に、父子の情愛によって結びつき、君民一体となって幾多の内憂外患を斥け国家の独立を維持してきたのである。これは王権と民権が激しい対立抗争を繰り返してきたシナや西欧とは対照的であり、我が国では、天皇と国民の間に介在する門閥貴族や幕府勢力を打破する運動としての「維新」を断行し、天皇親政によって国民が天皇の恩沢に浴することによってのみ、真の民主政治が実現されてきたのである。
 
政策解説2 天皇親政とは
 
天皇親政といっても陛下が政治の万般まで政務を執られるということではない。そんなことは不可能である。細々した政務は国民の代表である内閣に委任し、国家の安危に関わる重大な問題についてのみ大権を行使される。それを規定したのが帝国憲法であり、そこでは宣戦講和の権や、緊急勅令や戒厳令、条約締結などが天皇大権とされ、人臣の干渉を許さないものとされた。
 
しかし天皇が大権を行使されるようなケースはまれであり、それは戦時や大災害などの非常時に限られたため、日露戦後、平時が続くと、天皇親政は後退し、昭和天皇が英国行幸によって「君臨すれども統治せず」とする立憲君主制を模範とされ、さらには張作霖爆殺事件の処理を巡って田中義一首相を辞任に追い込まれたことを西園寺公望にたしなめられてからは、日支事変以後の戦時においても、陛下は消極的君主として政局の前面に出られることはなかった。このことが、帝国憲法における内閣と軍部の割拠性のなかで、軍部の暴走を招いた要因ともいえる。また治安維持法で「国体変革」が「私有財産制の否認」と同定されたころから、明治国家の性格が変わってきた。というのも我が国体は本来一君万民であるから私有財産制と関係ないにも関わらず、国体が資本主義と結びつけられ、資本主義の矛盾を隠蔽正当化するための利用されたのである。このように、帝国憲法天皇親政を前提していたが故に寡頭専制、軍部暴走を招いたのではなく、むしろ天皇親政が十分に発動されなかかったことが明治体制失敗の原因である。
 
いうまでもなく、戦後は象徴天皇制のもとで天皇から一切の政治的実権が剥奪され、江戸時代に退行してしまった。しかし、国民主権、民主主義の名の下で行われていることは、「多数派」の名を借りた、外国と内通結託した少数派による多数派支配である。特に80年代以降に流入した新自由主義グローバル化の滔々たる奔流は、政治的のみならず経済的にも国民を貧富貴賎の格差で引き裂き、国民を資本の奴隷化しつつある。こうしなかで、いまこそ天皇親政によって一君万民の政治を実現することが求められているのである。