日本独立党

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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(六)日野俊基

   日野俊基(ひのとしもと)は大学頭種範の子で、若くして少納言、大内記に任ぜられ、元亨三年(1323年)には蔵人頭に補せられました。世々儒を以て業とし、才学人に優れておりましたので、後醍醐天皇の寵愛せられるところとなりました。

   俊基、中納言日野資朝(すけとも)と共に倒幕と皇政復古を志し、密かに姿を変じて山伏となり、畿内、関東、西海を遊歴して、要害、風俗を見究め、京師に帰るや、資朝と共に学問研究の為の会合に名を借りて密談を行い、勤皇の志士を募りました。

    ところがこの謀洩れ、資朝は直ちに鎌倉に捕えられました。資朝、旨く弁解しましたから、俊基はその刑を免れることができ、一時京師に帰り、元弘元年(1331年)には右中弁に進みました。然るに不幸にして、その後に僧文観、忠円等捕えられて悉く朝廷の謀を告げましたから、俊基は再び捕えられて鎌倉に送られました。そこで俊基は逃るべからざるを悟り、菊川という駅(現在の静岡県菊川市)に到れる頃、宿屋の柱に和歌を題しました。

   古もかゝる例を菊川の (いにしえも かかるためしを きくがわの)

同じ流れに身をや沈めん (おなじながれに みをやしづめん)

   これは承久の変に藤原宗行という人がこの菊川にて刑せられたから、これを思い出してかく詠んだものでありましょう。

   かくて天皇隠岐に遷され給うに及び、俊基は遂に葛岡原にて殺されました。時に俊基は資朝と同じく左の偈(げ)を作り、従容として死に就きました。

古来一句(古来一句)    

無死無生(死無し生無し)  

萬里雲盡(萬里雲盡き)   

長江水清(長江水清し)   

(意訳)

古来より「死もなく生もない」という言葉がある。自分も精一杯頑張ったが、残念ながら、万里の果てに雲が尽きる様に、今は万策尽き果て、この様な結末となったが、理想の為に力尽きたのだから、生や死はもはや問題ではなく、少しの恨みもない。今は、長江の水が清らかな如く、自分の心は一点のけがれもなく、さわやかである。

   俊基の死するや、家臣後藤助光という人がその屍を焼き、骨を高野山に葬ったといいます。