政策解説 その1天皇を元首に戴くとは
政策解説 その1天皇を元首に戴くとは
天皇親政といっても、それは天皇独裁でも天皇専制でもなく、むしろ逆に民を大御宝として慈しむ仁愛の政治である。仁徳天皇の民の竈の故事に象徴されるように、歴代の天皇は常に国民に寄り添い、国民の苦楽を以て御自らの苦楽となされた。天皇と国民は君臣の関係であると同時に、父子の情愛によって結びつき、君民一体となって幾多の内憂外患を斥け国家の独立を維持してきたのである。これは王権と民権が激しい対立抗争を繰り返してきたシナや西欧とは対照的であり、我が国では、天皇と国民の間に介在する門閥貴族や幕府勢力を打破する運動としての「維新」を断行し、天皇親政によって国民が天皇の恩沢に浴することによってのみ、真の民主政治が実現されてきたのである。
政策解説2 天皇親政とは
しかし天皇が大権を行使されるようなケースはまれであり、それは戦時や大災害などの非常時に限られたため、日露戦後、平時が続くと、天皇親政は後退し、昭和天皇が英国行幸によって「君臨すれども統治せず」とする立憲君主制を模範とされ、さらには張作霖爆殺事件の処理を巡って田中義一首相を辞任に追い込まれたことを西園寺公望にたしなめられてからは、日支事変以後の戦時においても、陛下は消極的君主として政局の前面に出られることはなかった。このことが、帝国憲法における内閣と軍部の割拠性のなかで、軍部の暴走を招いた要因ともいえる。また治安維持法で「国体変革」が「私有財産制の否認」と同定されたころから、明治国家の性格が変わってきた。というのも我が国体は本来一君万民であるから私有財産制と関係ないにも関わらず、国体が資本主義と結びつけられ、資本主義の矛盾を隠蔽正当化するための利用されたのである。このように、帝国憲法が天皇親政を前提していたが故に寡頭専制、軍部暴走を招いたのではなく、むしろ天皇親政が十分に発動されなかかったことが明治体制失敗の原因である。