維新政党日本

我が国日本の真正なる独立を目指します。

維新政党日本宣言!

いまの日本の政治状況は酷すぎる。

自民党アメリカの走狗、民進党は、反日売国左翼で真に日本派の政党が存在しない。ひとむかし前は「たちあがれ日本」や太陽の党があったが雲散霧消してしまった。かくなるうえは、自分たちで真正保守の政党を作る他ない。ついては、本日天長節の佳日を以て新党を創立し、その党名を維新政党日本とする。

我が維新政党日本の政策は大きく三つ、第一に皇室中心主義による精神的独立、第二に対米自立、自主防衛による軍事的独立、そして第三に、新自由主義に対する国民経済の防衛による経済的独立である。

この三大政策は、玄洋社の三則、すなわち、第一に「皇室を敬戴すべし」、第二に「本国を愛重すべし」、そして第三に「人民の権利を固守すべし」に倣った。

以下に政策について説明する。

まず第一の皇室中心主義について、我々は天皇を主君に戴く、君民一体、祭政一致の国体を取り戻す。現行の占領憲法は、国民主権政教分離を定めているが、我が国の国体は天皇主権、祭政一致だ。我々は現代の大政奉還、王政復古によって君臣の名分を正し、国体の本義を顕現する。 

第二日米安保の廃止と自主防衛について、戦後我が国は米ソ冷戦下で対米従属を続けてきたが、冷戦終結以降も国家の自主独立を果たせていない。むしろ現在の安倍自民党政権は、対米従属を一層強化し、一方で軍事的膨張を続ける中国に対しても有効な抑止策を怠っている。我々日本独立党は、日米安保を廃して在日米軍を我が国から完全に撤退させ、自衛隊の国軍化、兵器の自主開発、尖閣諸島を含む国境離島への国軍配備、核武装によって、国家の完全なる軍事的独立を実現する。 

第三新自由主義に対する国民経済の防衛による経済的独立について、我々日本国民は天皇陛下の前に平等である。陛下は我々国民を大御宝として平等に慈愛し給う。したがって我々国民が享受している権利は、戦後憲法によって与えられたものでも天賦の自然権でもなく、臣下である我々国民に陛下が下された恩賜の民権に他ならない。戦後我が国は社民主義的な国家政策によって、一億総中流を実現したが、近年のネオリベ的な自由主義改革によって貧富の格差、先天的な不平等が拡大している。そこで我々日本独立党は、新自由主義から国民経済を防衛し、一君万民の国体を護持する。 

 

平成平成二十八年 天長節

 

 

増え続ける難民申請者

ついに難民申請者が一万人を超えた。インドネシアやネパールからなぜ難民申請に来る必要があるのか意味が分からない。内戦や専政下にある国ならともかく、殆どが就労目的の偽装難民だろう。法務省は事実を認識しながら、彼らに一律で就労許可を与え、問題の拡大を放置している。正当事由なき偽装難民に対しては、国外退去や強制送還等、断固たる措置を取るべきだ。

https://www.google.co.jp/amp/www.jiji.com/jc/amp?k=2017021001016?client=safari

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(二)平貞盛と藤原秀郷

   僧道鏡の後、不臣の行いをしたのは平将門です。将門は鎮守府将軍良将(よしまさ)の子で摂政藤原忠平に仕え、検非違使(けびいし)の官になろうと思っておりましたが、忠平はこれを顧みませんでしたので、将門は大いに怨み、常陸下総の間で謀反を起こしました。将門は常陸の叔父、国香を殺し、下総の叔父、良兼を攻め、各地で金品を略奪した挙句、たまたま八幡の使者が「朕まさに位を蔭子、将門に譲らんとする」との大神の教えをもたらしたのを聞いて喜び、自ら親王を称して偽りの宮を下総に置きました。

   そのとき藤原純友なる者が将門の反乱に応じて伊予(愛媛)で反乱を起こしたため、朝廷は大混乱を来し、藤原忠文(ただふみ)を征東大将軍に任命してその討伐に向かわせました。

   これより先、平国香の子貞盛(さだもり)は、父の仇に報いようと常陸に下りましたが、将門との戦いに苦戦を強いられておりました。ときに、下野の藤原秀郷(ひでさと)は、つとに勇名を馳せておりましたが、貞盛の味方に参じ、将門の軍勢が手薄になったのを貞盛と共に急襲して、ついに将門を殺しました。この軍功を以て、後に貞盛と秀郷は共に高位に叙せられ、鎮守府将軍を拝命しております。

奉祝紀元節

   本日二月十一日は、紀元節である。この紀元節は、初代神武天皇が、御東征の後、奈良の橿原宮で即位建都遊ばされた日であり、戦前は四大節四方節紀元節天長節明治節)の一つとして国を挙げた奉祝行事が営まれたが、戦後はGHQによって廃止された。その後、「建国記念の日」として復活したが、国民の大半は、その由来を知らないでいる。

   平成二十二年の参院選のときの公約集「自民党政策集Jファイル2010」で、自民党は「政府主催で、二月十一日の建国記念の日、そして二月二十二日を『竹島の日』、四月二十八日を『主権回復の日』として祝う式典を開催します」と公約していたが、『主権回復の日』は開催された一方で、「建国記念の日」の式典は未だ開催されていない。安倍首相に対しては、速やかに公約を実行し、政府主催の奉祝式典を開催するよう、強く要請する。

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石原元知事の功罪

東京都議会が、石原慎太郎元知事を参考人招致するらしい。石原都政豊洲市場の汚染問題など負の遺産もあるが、一方で尖閣諸島の購入計画や、横田ラプコンの一部返還など、賞賛に値する功績も忘れてはならない。功罪半ばするのは政治家の常であるが、彼にとって惜しむらくは、保守愛国をかたりながら、我が国の指導者にとって最も肝心である、尊皇心が欠如していたことであろう。残念ながら、石原慎太郎は、愛国の仮面を被った共和主義者である。それは、かつて三島由紀夫との対談における次の一節を読むだけでも瞭然である。どんな功績があっても尊皇心がなければ意味がない。まさに「画竜点睛を欠く」というやつである。

(石原)何を頑張るんですか?三種の神器ですか?
(三島)ええ、三種の神器です。僕は天皇というものをパーソナリティを作ってしまったのが、一番いけないと思うんです。戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、みなが天皇をパーソナルな存在にしてしまった。
(石原)そうです。昔みたいにちっとも神秘的ではないもの。
(三島)天皇というものはパーソナルじゃないんです。(中略)今週も美智子妃殿下がおこしになる。と、騒がれている。そのような、天皇制にしてしまった。パーソナルなものにするということで、天皇制に対する反逆ですよ。逆臣だと思う。
(石原)僕もまったくそう思う。
(三島)それで天皇制の本質が誤られてしまった。だから石原さんみたいな、たいへん無垢であるけれども、天皇制反対論者をつくちゃった。
(石原)僕は、反対じゃない。幻滅したの。
(三島)幻滅論者というのは、つまりパーソナルにしちゃったから幻滅したんですよ。
(石原)でも僕は天皇を最後に守るべきものと思ってないんでね。
(三島)思ってなきゃ、しょうがない。今に、目が覚めるだろう。

対談の全文は『江藤淳全集』で読める。

チベット首相来日

   実は今月2月4日から、チベット亡命政府ロブサン・センゲ首相が来日している。これまで中国は、チベットを侵略・支配し続け、少なくとも1950年から80年までの間に120万人以上ものチベット人が虐殺されたと言われている。しかも中国は、多くのチベット人に対して不法な逮捕勾留、チベット語の禁止、文化財や歴史遺産の破壊を繰り返し、それは今も続いている。

   中国はかつて20万人の人口しかなかった南京で30万人が日本軍によって「虐殺」されたと、明らかな嘘を吐いているが、人民解放軍は、600万人いたチベット人の五分の一に当たる120万人を文字通り「虐殺」した。これはナチスホロコーストにも匹敵する世界史的大虐殺である。その様な非道を現在進行形で行っている中国から、我が国が過去の「侵略責任」を非難されるいわれは些かもない。

   我が国のメディアはセンゲ首相の訪日を殆ど報じていないが、中国の悪質な反日プロパガンダに対抗するためにも、我が国はチベット共闘して「チベット大虐殺」の非道性を世界に発信すべきだ。実は安倍首相もかつて野党時代の12年11月にダライ・ラマ法王と会談し、「チベットの人権弾圧を変えるために全力を尽くす」と約束をしているが、その約束は未だ果たされていない。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2012-11-13/MDEM2B6KLVRI01

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(一)和気清麻呂

   和気清麻呂(わけのきよまろ)は、称徳天皇(718〜770)の時代、吉備(現在の岡山)の人です。清麻呂はその性硬直で世人の重んずるところとなっておりましたから、称徳天皇は特に清麻呂を召して大事をお頼みになったのであります。それは如何なる用向きであったかといえば、その当時、僧の道鏡という者があって宮中に出入りして天皇の寵愛を被りましたが、重く用いられて法王になりました時、ある者が道鏡に媚びて、天皇に、宇佐八幡の託宣に「道鏡皇位に就かしめたなら天下太平になるなるであろう」とのお示しがあったと奏上しました。そこで、天皇は大いに惑い給いて、正直なる清麻呂をして八幡に御旨を伺わしめましたところ、八幡の告げるには「我が国家は開闢以来君臣の分定まり、臣を以て君とすることは未だないのである。天日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇胤を立て、無道の者があれば速やかにこれを除かねばならない」というものでした。その時、道鏡清麻呂に、もし我の思いのままにすればお前を太政大臣にもしてやるが、これに反すれば重い罪科を課すぞと恫喝しました。しかし清麻呂はこの恫喝に屈せず、託宣のままを天皇に奏上したので、道鏡はこれに怒り、清麻呂の姓名を別部穢麻呂と改めて大隅(鹿児島)に流しましたが、ついに天皇皇位道鏡にはお譲りになりませんでした。

   まもなく称徳天皇がお隠れになり、光仁天皇が即位されると、不臣の道鏡はかえって下総に流され、清麻呂は召し還され、その功を賞して和気朝臣(わけあそん)の姓を賜り、さらに桓武天皇延暦年中には、山城の地を奏上してそこに都が遷されました。これが即ちかつての平安京、いまの京都の地であります。