維新政党日本

我が国日本の真正なる独立を目指します。

「売国保守」安倍首相の罪状2

これは単なる一例に過ぎない。他にも安倍首相は、従来における保守的な信条と明らかに矛盾するばかりか、かつて自らが激しく非難した民主党政権に負けじとも劣らぬ政策的誤りを犯している。その罪状として思いつくものを挙げると、以下の五箇条にまとめられる。

第一に、空虚な「日米同盟」幻想に基づいた、宗主国アメリカに対する従属的な外交・防衛政策、シナや北朝鮮の脅威に対する無為無策拉致問題での進展ゼロ、
第二に、上述した慰安婦問題を含む、歴史認識の問題における自虐史観の追認、靖国神社への不参拝、
第三に、深刻化する移民問題在日特権の放置、
第四に、昨今における今上陛下の御譲位の問題に際して表出した皇室への不敬不忠、
そして第五に、我が国独立の基盤である農業や地方社会を破壊し、国家資源や国民財産を外資に売り渡し、国民を貧富の格差で分断する一連の新自由主義的経済政策である。
以下では、その一つずつについて説明して行くが、何れについても言えるのは、安倍首相が保守政治の看板の下にやっていることは、親米保守の名におけるひたすらなる対米従属であり、これは以前の民主党政権における媚中親韓外交と本質的には何も変わらない、事大主義的な属国政治だということだ。要は親米反中か反米親中かという違いに過ぎないのであって、そのどちらにも日本がないのである。それでも、安倍首相を支持し続けるというのなら、それは彼の掲げる「保守」の偽装看板に騙されているに過ぎない。だから未だに安倍首相を保守の最後の希望のごとく信じている方はいい加減目を覚まして頂きたい。安倍首相がやっていることは、保守でも何でもない、「偽装保守」のまやかしだ。そればかりか、善良なる保守層の期待を裏切り、「日本を取り戻す」どころかアメリカに売り渡した罪は「売国」の名にすら値する。だから、共産党は言うに及ばず、民進党社会党崩れが「売国リベラル」なら、安倍首相や自民党の自称保守勢力の実体は、「売国保守」に他ならない。この様に、我が国を席巻する左右の売国勢力に対して、いま我が国に必要なのは、真に日本の立場に立つ独立派の勢力でなのであり、我が日本独立党こそ、その一翼担わんとするものである。

「売国保守」安倍首相の罪状1

第二次安倍内閣の発足から五年、未だに安倍首相を支持している方にお聞きしたい。結局、安倍首相は、我が国の為に何を残したのか。特に安倍首相は、保守政治家を自任し、全国の保守層の衆望を担って政権に返り咲いた経緯がある。その安倍首相が、保守的な信条に基づいた自らの政策を全然実行しないばかりか、従来の主張に逆行する様な政策を次々と行っているにもかかわらず、それでもまだ安倍首相を支持し続けている理由が何なのか教えて頂きたいのである。安倍首相以外に期待を託せる政治家がいないという意見もあるだろう。しかし、安倍首相がこれまでやったことは、「売国的」と非難された、あの民主党政権がしでかしたことに勝るとも劣らない位「売国的」であると言わざるを得ない。例えば、韓国との間での、いわゆる「慰安婦合意」についても、安倍首相は従来、戦前の我が軍によって売春を強要された「従軍慰安婦」など存在しないと断言し、保守派の喝采を浴びてきた。しかし、実際に政権に就いてやったことは、「従軍慰安婦」の存在を認め、韓国に対する謝罪と事実上の追加賠償である十億円の支払いを敢えてするという、かつての安倍首相があれ程口汚く罵った「河野・村上談話」を上塗りし、かの売国的な民主党政権でも成し得なかった暴挙であった。この「慰安婦合意」にもかかわらず、韓国側は釜山日本領事館前の慰安婦像を撤去しないどころか、今度は朝鮮人徴用工の問題を持ち出して、新たな謝罪と賠償を求め始めている。しかし、こうなる事など、初めから分かっていたではないか。慰安婦問題にしても、既に1965年の日韓基本条約において、韓国は戦後賠償における対日請求権を放棄し、両国の歴史問題は解決済であったにもかかわらず、韓国はその後も慰安婦問題を掘り返してきたのであるから、仮に「慰安婦合意」で、我が国がもう一度謝罪と賠償をしたところで、韓国が合意を破り、再び歴史問題を掘り返すことなど火を見るよりも明らかであった。それでも安倍首相は、必要のない「慰安婦合意」を敢えてした結果、かえって韓国側を勢い付かせ、今日の事態を招いたのである。「韓国けしからん」と思うのは当然であるが、それ以前に、こうなると分かっていながら、韓国に我が国の「侵略責任」を認め、屈辱的な謝罪と賠償を敢えてした安倍首相こそ断罪されて然るべきである。

「非核平和宣言」こそ平和の敵である。

浦安市を含む全国の自治体で見かける「非核平和宣言都市」の看板や垂れ幕。欺瞞以外の何物でもない。北朝鮮が核・ミサイル開発に邁進するなかで、いまだに「非核平和」を宣言するということは、「我が自治体は、米朝の有事に際して、日米安保にもアメリカの核の傘にも頼りません」、という事か。余りにも時代錯誤、無責任で馬鹿げている。「非核平和」という言葉は、いかにも「核を持たなければ平和になる」といった印象操作を与えるが、現実は逆、つまり「核を持たねば平和を保てない」のである。我が国が昭和二十年八月六日と九日の時点で核兵器を持っていれば、アメリカに原爆を落とされる事はなかった。左翼や一部の似非保守は、我が国は唯一の被曝国であるが故に、絶対に核を持ってはならないというが、逆だろう。すなわち、我が国は世界で唯一の被曝国であるが故に、絶対に核を持つ資格があるのである。国防の現実を顧みない無責任な「反核平和」思想が国を滅ぼす。

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戦後七十二回目の「終戦記念日」を迎えて

本日、八月十五日は、戦後七十二回目の「終戦記念日」である。先の大東亜戦争で殉難された全ての我が国民に対し、衷心より哀悼の誠を捧げる。「終戦記念日」とはいえ、その実は「敗戦記念日」であり、周知の様に我が国は、「国体を護持しうる」という条件の下でポツダム宣言を受諾したにもかかわらず、戦後我が国に進駐したアメリカ占領軍によって、神道指令や天皇人間宣言主権在民憲法の制定など、我が国の国体を根本から否定する政策を課され、さらにサンフランシスコ講和によって「独立」を回復して以降も、日米安保日米地位協定によって、事実上のアメリカの軍事支配下に置かれ、「独立」とは名ばかりの属国的地位に甘んじて来た。この状況は米ソ冷戦が終結して四半世紀が経とうという今日に於いても一向に変わらないばかりか、現在の安倍晋三内閣は、むしろ「日米同盟」の強化の名の下に、従来の「対米従属」に拍車をかけ、我が国の独立は遠のく一方である。この様に、我が国はいまだに、「敗戦」から立ち直れぬまま今日に至っているのである。

しかし我が国を取り巻く情勢の変化は、こうした体たらくを許さない所まで逼迫している。隣国の北朝鮮は我が国の主権を脅かす核・ミサイル開発に邁進し、中国は南シナ海での領海侵犯や海洋侵略の動きを活発化させている。これに対して戦後「世界の警察」を自称したアメリカは、自国第一主義を掲げるトランプ政権の下で、建国以来の孤立主義政策に回帰し、東アジアでは動乱の危機が着実に忍び寄っているのである。

こうした中で、我が国はいまこそ、自主独立の気概を振り起して、国体を顕現し、アメリカの属国体制から脱却して真の独立を取り戻し、中国や北朝鮮といった外敵の侵略を阻止せねばならない。それは取りも直さず、天照大神の正統を継ぎ給う天皇を主君に戴き、神皇一体、祭政一致の政体を回復すると共に、在日米軍を完全に撤退させ、核武装を断行することによって、真の軍事的独立を成し遂げる事に他ならない。特に、来年は畏くも今上陛下の御譲位が予定されており、我が国民は内外の懸案を払拭し、新しい大御代を迎えるべく万全の準備を尽くすべきである。我が国が、往古の国体を取り戻し、真の独立を成し遂げたとき、初めて「敗戦」は「終戦」になるのであり、その時まで我々の「戦後」が終わることはない。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十四)北畠顕家

   北畠親房には三兄弟の子供がありました。顕家(あきいえ)、顕信、顕能であります。皆よく王家の為に尽し、公卿の出でありながら軍事に従事し、いずれも戦功を挙げたのは、その忠誠の志を示すものでありましょう。
 元弘元年(1331年)、長子顕家は参議に任じ、同三年(1333年)には勅を奉じて陸奥守となりました。義良親王を奉じ、陸奥・出羽に赴き、両国を帰順せしめ、その功によって、建武元年(1334年)には従二位に叙せられ、二年(1335年)には鎮守府将軍を兼ねました。顕家の躍進は此の如きでありました。
 足利高氏が反逆するや、義良(のりなが)親王後醍醐天皇の第七皇子、後の後村上天皇)を奉じ、新田義貞と共に、高氏を鎌倉に攻めました。ところが、この時高氏は大兵を率いて京師の方へと進みましたので、顕家、義貞と共にこれを追いました。高氏と各所に戦いて一勝一敗あり、遂にこれを破りましたので、高氏は九州へと敗走しました。それによって車駕京師に還り、顕家は再び陸奥を鎮めることとなったのです。
 然るに再び、高氏が九州で兵を挙げ、京師に攻め来りました。また、陸奥の将士の多くも高氏に応じ、顕家を攻めました。顕家は義良親王を奉じて霊山城に向かい、そこで籠り時を待ちました。折しもその時、詔書来り、京師に出でて足利直義を討てと仰せられたので、顕家は霊山を出ました。白川関を経て宇都宮に至り、足利義詮利根川を隔てて対陣し、これを破って相模に入り、直ちに北条時行新田義興と共に鎌倉を攻めて足利義詮を敗走せしめました。その後、兵を率いて京師に赴かんとしましたが、沿道の賊軍に阻まれたので、顕家は陣を青野原に留めました。時に高氏、高師泰を遣わして顕家を攻めさせました。このために、顕家は前後から敵に挟まれ、窮地に立たされました。各所にて戦い、漸く河内に逃れて男山に陣し、高師直と戦って破りました。然るに、師直さらに大兵を挙げて男山を囲みましたので、顕家は出でて戦いましたが大いに敗れ、接戦して遂に陣没したのであります。
 時に顕家は僅かに二十一の青年でありました。後に功を以て従一位右大臣を贈られたのであります。

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「敗戦」から「終戦」へ

今年もまもなく終戦記念日を迎える。「終戦記念日」というと聞こえはいいが、実際は「敗戦記念日」であり、我が国にとっては白村江の戦い以来の大敗北を喫した国辱的な記念日である。周知の様に我が国は国体を護持しうるという条件の下でポツダム宣言を受諾したのであるから決して「無条件降伏」ではなかった。しかるに戦後アメリカによる対日占領政策では、神道指令や天皇の「人間宣言」、主権在民憲法等、我が国の国体を根本から否定する改革が行われ、我々は戦後から七十年以上を経た現在に於いても、その後遺症に苦しめられているのである。特に、戦後GHQ日教組によって植え付けられた自虐的な進歩史観が我が民族の弱体化に与えた影響は計り知れない。そこでは、先の戦争を引き起こした原因が、明治憲法下における民主主義の不徹底や内閣から独立した軍部の暴走によるものとされ、民主主義や軍の文民統制を正当化する根拠とされたのである。確かに明治憲法では、天皇統治権を総攬し、軍を統帥するとされた一方で、その存在は神聖不可侵であるから政治的に不問責であると規定されたことから、一面では皇威を傘に着た薩長藩閥の政治的な隠れ蓑にされた嫌いはある。また、明治の元勲亡き後、内閣と軍が割拠し、政軍の意思統一が測り辛くなったのも事実である。しかしその事は、毫も天皇をイギリスの立憲君主の様に、政治権力の埒外に置き、文民統制の名の下に軍を民主主義に従属させる根拠にはならない。むしろ、それらの事実は、本来、建武新政以来の王政復古天皇親政を実現した明治維新の精神が英国流の立憲君主制の影響によって後退した結果を示すものに他ならない。即ち、「君臨すれども統治せず」とする消極的君主像が理想化されたことが、天皇大権の発動による断固たる政治意思を不在にし、責任の所在を曖昧にし、政軍の割拠を招いた根本の原因なのである。天皇は神聖不可侵であるが、統治権の総攬者である以上、政治的に不問責ではあり得ない。しかしその責任は、国民やその子孫に対してではなく、皇祖皇宗に対するものであり、それなくしてキリスト教的な個人主義道徳に基づかない我が国の政治体制は、茫漠たる「無責任の構造」(丸山)に陥らざるを得ない。戦後民主主義は、軍(自衛隊)は内閣に対して責任を負い、内閣は国会に対して責任を負い、国会は国民に対して責任を負うことになっているが、では国民は何に対して責任を負うのか定かではない。天皇は、皇祖皇宗に対して責任を負い給うのに対して、国民は将来の何者にも責任を負うことはない、いな誰も責任を負うことなど出来ないのである。これこそ、巨大な「無責任の構造」である。この様に、我々が先の敗戦と明治憲法体制の挫折から学ぶべき教訓は、天皇親政ではなくして立憲君主制、責任なき民主主義、議会政治の弊害である。

徳富蘇峰翁は、終戦直後の日記の中で、先の敗戦の原因について考察し、次の様に述べている。「今上陛下に於かせられては、むしろ御自身を戦争の外に超然として、戦争そのものは、その当局者に一任遊ばされることが、立憲君主の本務であると、思し召されたのであろう。しかしこれが全く敗北を招く一大要因となったということについては、恐らくは今日に於てさえも、御気付きないことと思う」と。我が国に於ける天皇の本来的な御姿は、英国流の立憲君主の様な消極的君主ではなく、万機をみそなわし、皇軍を統帥し給う能動的君主としての御姿である。またそのご親政を輔弼し奉ることが臣下たる我々国民の責任であり、この君臣の本然たる姿を取り戻すことが国体の護持にとって何より肝要であって、それなくして我々が先の「敗戦」の教訓に学んで有史以来の国辱を雪ぎ、真の「終戦」を遂げることは出来ないと断じる。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十三)北畠親房

我国が南北両朝に分れて互いに雌雄を争った時に、『神皇正統記』を著して南朝が正統であることを論じ、いわゆる大義名分を明らかにしたのは、北畠親房(きたばたけちかふさ)であります。親房は第六十二代村上天皇の第七皇子、具平(ともひら)親王の後裔で、権大納言師重(もろしげ)の子、顕家の父であります。北畠家は、村上源氏嫡流として代々朝廷に仕えた名門です。

 元亨三年(1323年)には大納言に進み、世良親王の傅(輔佐役)となりました。しかるに元徳二年(1330年)に親王が薨じ給うたので、親房は大いにこれを悲しみ、髪を剃って宗玄と号しました。ところが、元弘元年(1331年)に後醍醐天皇隠岐の島より還幸されて、政を親(みずか)らせらるるに至り、親房は再び仕えることになりました。
 時に足利高氏が反乱を起こし、延元元年には京師を犯し攻めましたから、親房は天皇の車駕に従って、延暦寺に赴きました。間もなく天皇が高氏の言を聞きて京師に帰られましたが、親房は高氏に従うことを欲せず、伊勢に向かいました。
 延元三年(1338年)、親房の子、顕信(あきのぶ)が陸奥鎮守府将軍となり、陸奥に赴くや、親房はこれを助けんとして出発しました。途中、海上にて台風に逢い、常陸の国に漂着し、そこにもまた敵兵が来り攻めましたので、親房は小田城へと向かいました。そこに隆良親王を迎えて、これを奉じておりましたが、城主小田治久が敵将高師冬(こうのもろふゆ)に降りましたから、親房もまた逃れました。逃れること数回に渡り、親房は止むなく吉野の行宮に還ったのでした。
 その後も親房、一意王家の為に尽しましたが、不幸にも諸事、意の如くならず、正平九年(1354年)に賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)にて薨じたのでありました。紆余曲折の人生ではありましたが、生前に親房が残した『神皇正統記』は大義名分を明らかにし、その後多くの憂国の志士の触れるところとなり、尊皇精神を世に伝えていったのであります。