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日本独立党

我が国日本の真正なる独立を目指します。

『皇統護持論ー安倍首相は皇統護持の実を挙げよ』(平成二十八年二月)

待ったなしの皇統問題

第二次安倍内閣が発足してから三年がたった。元来、安倍首相は保守政治家を以って自任し、自民党が政権を奪還した先の総選挙では、「日本を取り戻す」といって首相に返り咲いた。しかしその安倍首相が、わが国存立の根幹をなす御皇室の問題について、いまだ何らの方策を講じていないのは、わが国の宰相として、いわんや保守政治家として、怠慢の謗りを免れない。

有史以来、我が国の皇位は、男系による継承が貫かれてきた。ところが戦後、昭和四十年の秋篠宮ご誕生以来、御皇室には久しく男児のご誕生がなく、近年に至り、将来的な皇位継承者の不在による皇統断絶の危機が発生した。そうしたなかで、平成十七年、時の小泉首相私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」は、皇位継承資格者を男系男子に限定する現行の皇室典範を改正し、女性・女系天皇を容認する内容の報告書を首相に提出し、物議を誘発した。ところが、翌平成十八年に、悠仁親王ご誕生の僥倖が訪れ、澎湃たる奉祝ムードのなかで、皇室典範改正の議論は沙汰やみになった。しかし、親王のご誕生を以ってしても依然として将来世代の皇位継承資格者が不足している現状に変わりはなく、将来、親王男児がお生まれにならなければ同じ問題の繰り返しになるのであるから、現行典範のもとでは安定的な皇位継承は期しがたい。

本来、皇室典範は皇室の家法であり、我々国民が云々すべきではない。戦前の皇室典範は、皇室の家法であり、帝国議会の協賛を要さない不磨の大典であったが、戦後、アメリカによる占領下で制定された現行の皇室典範は、憲法の下で国会の議決に従う一般の法律に格下げされたため、畏れ多くも我々国民が議論せざるをえなくなった。また、この皇位継承の問題は、男系女系の如何によらず、現在の内親王・女王方が結婚などによって皇籍を離脱されるまでに結論を出さねばならず、事態は一刻の猶予も許さないのである。

有識者会議」の論拠

さて、前述した「有識者会議」の報告書は、典範改正の基本的視点として第一に「国民の支持と理解を得られること」、第二に「伝統を踏まえたものであること」、第三に「制度として安定したものであること」を示し、それぞれ、以下のような女性女系天皇容認の根拠を挙げている。

まず第一の「国民の支持と理解」に関して、現行の男系男子による継承は、非嫡系ないしは傍系の担保がなければ制度としての安定性を保てない。男系男子派は、戦後の昭和二十二年に臣籍降下した旧宮家皇籍復帰を主張しているが、これらの旧皇族は、皇籍を離れて久しく、今上陛下と共通の祖先は約六百前の室町時代にさかのぼる遠い傍系であり、国民が皇族として受け入れるか懸念がある。一方で、現在の「象徴天皇制度」は過去のどの時代よりも皇族として生まれ育ち国民に親しまれていることが重要であり、男性優位の価値観が変容した今日の国民にとって、男女や男系女系の別は重要でない。

次に第二の「伝統を踏まえたものであること」に関して、歴史的にも一旦皇籍を離れた皇族が、再び皇籍に復帰した例は平安時代の二例しかない反面、女性天皇は、八人十代の前例が存在する。皇位継承の伝統の本質は、男系ではなく世襲にあり、男系への固執によって、本質的な伝統としての世襲を危うくするのは本末転倒である。

そして第三の「制度として安定したものであること」に関して、現在の皇室は、非嫡出が認められず、近年急速な少子化が進む社会の動向と相即するかのように、出生数の減少が続いている。こうしたなかで、男系男子を維持しながら、皇位継承資格者を安定的に確保することは不可能であり、その対策として、男系男子派が主張する旧宮家皇籍復帰も、前述した様に国民の理解を得難い。

これに対して、男子護持の立場から、以上を論駁すること以下の通り。

皇室典範は不磨の大典

まず、第一の「国民の支持と理解」に関して、上述したように、本来皇室典範は、皇室の家法であり、我々国民が容喙すべきではない。明治典範の注釈書である『皇室典範義解』は、その序で「皇室典範は皇室自ら其の家法を條定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず。而して将来已むを得ざるの必要に由り其の條章を更定することあるも亦帝国議会の協賛を経るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は粗相に承け子孫に伝ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。又臣民の敢えて干渉する所に非ざるなり」と記されている。また典範第六十二条は「将来此の典範の条項を改正し又は増補すへきの必要あるに当たては皇族会議及枢密顧問に諮詢して之を勅定すべし」とあり、その趣旨について『義解』には「蓋し皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして臣民の公議に付すべきに非ざればなり」と述べている。

こうした性格を持つ皇室典範が戦後は一転して国会の支配下におかれたのである。これは現行憲法で「国民の総意」に基づくとされた「象徴天皇制」の趣旨によるものであるが、いくら「国民の総意」に基づくとはいえ、だからといって、我々国民が今日の価値観や政治的都合で皇位継承のルールを変更し、ご皇室の命運を左右する資格などなく、最終的には当事者たる陛下御一人のご聖断を仰ぐべき問題である。あるいは逆に、一度御聖断が下れば、「国民の支持と理解」は自ずとついてくる。このように、報告書のいう「国民の支持と理解」は典範改正の結果ではあっても要件ではない。

女帝は「前例」ではなくて「例外」

歴代女帝一覧次に第二の「伝統を踏まえたもの」に関して、たしかに我が国史上には、第三十三代推古天皇、第三十五代皇極天皇、第四十一代持統天皇、第四十三代元明天皇、第四十四代元正天皇、第四十六代孝謙天皇、第百九代明正天皇、第百十七代後桜町天皇、そのうち皇極天皇重祚して第三十七代斉明天皇孝謙天皇重祚して第四十八代称徳天皇、かくして八人十代の女性天皇がおはしますが、この八方は何れも男系皇女であり、その内、推古天皇皇極天皇持統天皇元明天皇は前天皇ないしは皇太子の寡婦で即位後も再婚されず、残りの元正天皇孝謙天皇明正天皇後桜町天皇も生涯処女を貫かれたから、少なくとも女系皇子は残されていない。

またそれぞれのご即位の経緯をみても、男系皇子が即位されるまでの臨時ないしは中継ぎの性格が強い。例えば、推古天皇敏達天皇の皇后であり、蘇我馬子による崇峻天皇の弑逆という大変事の後に即位されたが、これは摂政である聖徳太子への譲位を前提にしたものである。また皇極天皇舒明天皇の皇后であり、その御即位は中大兄皇子の年長し給うを待たれたものである。また持統天皇天武天皇の皇后であり、草壁皇子の早世し給いし後、その皇子である文武天皇の成人まで皇位を保たれた。元明天皇草壁皇子の妃にして文武天皇の母君であり、元正天皇はその長女であるが、いずれも文武天皇の遺子である聖武天皇の年長し給うを待たれた。さらに、後水尾天皇の皇女である明正天皇は、弟宮の後光明天皇が十歳になられるのを待って譲位され、後桜町天皇も、弟宮の桃園天皇が若くして崩御された後、幼少の後桃園天皇元服されるまでの中継ぎとして即位されたのである。このように、我が国史上における女帝の存在は、皇位継承の伝統にとって、前例というよりは例外の意味合いが強い。

これに対して、皇籍復帰の前例が平安時代の二例しかないというのは、第五十九代宇多天皇と第六十代醍醐天皇の父子二代のことであり、なかでも醍醐天皇は臣籍の出身であるが、この父子二帝こそ、それぞれ「寛平の治」、「延喜の治」として知られる天皇親政を敷き、皇運隆盛の時代を築いた名君に他ならない。

過去の教訓

また我が国は歴史上、皇統断絶の危機を三度経験しているが、その都度、女帝による中継ぎはあったにせよ、男系による皇統継受を守り通している。まず、最初の危機は、第二十五代武烈天皇から第二十六代継体天皇への継承の際である。武烈天皇には皇嗣がなく、応神天皇五世の末裔である男大迹王(おほとのおほきみ)が継体天皇として即位し、武烈天皇の姉妹である手白香皇女を皇后に迎え入れた。第二の危機は、第百一代称光天皇から第百二代後花園天皇への継承の際である。第百代後小松天皇の即位による南北朝の合一後、後小松天皇の皇子である称光天皇皇位を継がれたが、若くして崩御され、皇子も皇弟もなかった。そこで、北朝第三代崇光天皇の皇子栄仁親王を初代とする伏見宮家の三代目が後小松天皇の「猶子(親戚から入る養子)」として迎え入れられ、後花園天皇として即位された。第三の危機は、第百十八代後桃園天皇から第百十九代光格天皇への継承の際である。第百十六代桃園天皇が若くして崩御し給いし時、皇子の後花園天皇が幼少にましましたため、桃園天皇の姉君である後桜町天皇が中継ぎとして即位された。これは前述の通りである。しかし、その後花園天皇も、在位十年で崩御し給い、皇嗣も欣子内親王お一人であった。そこで急遽、後花園天皇の例に倣い、東山天皇の皇子直仁親王を初代とする閑院宮家から猶子が迎え入れられ、光格天皇として即位された。この光格天皇は、上述した後桃園天皇の遺子である欣子内親王を皇后に迎えられている。

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このように、天皇に直系の皇嗣が女性しかおられない場合、皇位を継がれたのは、直系の皇女ではなくて傍系の男性皇族であり、かつその傍系の皇胤を、血統上の系譜は動かし様もないが、皇統譜の上で直系に組み入れる、もしくは近づけるために、上皇今上天皇の猶子にする、さらには遠い傍系からの継承という印象を和らげるために直系の皇女ないしは女王を皇后に迎えて地位の安定を図る、というのが皇位継承の伝統なのであって、直系維持のために女性・女系天皇を容認するには我が国の伝統に反する態度である。

また、女性天皇女系天皇は、峻別すべきであり、歴史上の例外を認めて女性天皇は容認すべきだという立場も存しようが、以上でみたように、男系皇嗣を前提にした中継ぎとしての即位でなければ皇統護持にとって意味をなさないし、今日の価値観に鑑みて、その女帝が過去の八方のように寡婦ないしは処女としてのお立場を貫かれることは困難である。とすれば、当然に臣籍から皇夫を迎えざるを得ず、その皇夫との間に生まれた御子は女系といえども皇子であることに変わりはないのであるから、またもや女系天皇の是非をめぐる問題が生じるのは必定である。

女系天皇は事実上の易姓革命

実は、かつて明治典範の制定に際しても、女性天皇をめぐる同様の議論が存在した。当初宮内省は、女性・女系による皇位継承を可能とした「皇室制規」を立案したが、伊藤博文の側近で明治憲法の起草に携わったことで知られる井上毅は、この「皇室制規」に反対して伊藤に提出した「謹具意見」のなかで次のように述べている。

「今此の例に依り、かしこくも我国の女帝に皇夫を迎え、夫の皇夫は一たび臣籍に入り、譬へば源の某と称ふる人ならんに、其皇夫と女帝との間に皇子あらば即ち正統の皇太子として御位を継ぎ玉ふべし。然るにこの皇太子は女系の血統こそおはしませ、氏は全く源姓にして源家の御方なること即ち我が国の慣習に於ても又欧羅巴の風俗にても同一なることなり。・・・欧羅巴の女系の説を採用して我が典憲とせんとならば、序にて姓を易ふることも採用あるべきか、最も恐しきことに思はるヽなり。」

すなわち、もし女性天皇が皇夫を迎えられ、その間に生まれた皇子が女系天皇として即位されたとしたら、その時点で皇統は皇夫の姓に移り、易姓革命が起ったことになる。いうまでもなく、我が皇室の尊厳なる所以は、皇統が万世一系であり、一度の革命も経ていないという事実に存する。したがって、女性・女系天皇によって、事実上の易姓革命が起るのであれば、皇位の正統性は失われ、下手をすると、奸臣曹丕によって後漢献帝が廃された後、かつて草鞋売りをしていた劉備玄徳が前漢景帝の子、中山靖王の末裔であることを理由に帝位に就いた例ではないが、遠い傍系の男系が我こそは正統なりと皇位を僭称し出してもおかしくはない。

そこで最後に第三の点に関してであるが、女性・女系天皇の容認は、報告書がいうように「象徴天皇制」の安定をもたらすどころか、かえって我が国に皇位の正統性をめぐる騒乱を惹起し、ご皇室そのものを危殆に瀕せしめる可能性すらある。

したがって、以上縷々述べた理由から、女性・女系天皇は容認すべきでなく、あくまで男系男子を護持すべきである。しかしその際、女性・女系派がいみじくも指摘するように、安定的な男系継承を確保するためには、非嫡系ないしは傍系による継承を担保する必要があるから、戦後臣籍に降下した十一の宮家を皇籍に復帰させるべきである。そして直宮に皇嗣が不在の場合は旧例に倣い、それらの宮家から男性皇族を今上陛下の猶子として迎え入れ、国民と親しみのある皇女ないしは女王を皇后ないしは妃に迎え入れることで皇位の安定を図るのである。先に、現在の内親王ないしは女王が皇籍を離脱されるまでの間に、皇位継承の問題を解決せねばならないと述べたのはそのためである。具体的には、現行典範第九条の規定を改め、天皇及び皇族が全ての宮家から男系の養子を迎えることが出来る旨明記すればよい。

こうした典範の改正は、現行憲法の元で国会の議決を要するものとされているが、前述したように皇室典範は本来、皇室の家法であるから国民の「支持と理解」に依拠するものではなく、また法律としても、制定されたのは現行憲法の施行前であるから、憲法の統制に服するものでもなく、政府がご聖旨を拝して改正を国民に通知すれば足る。

よって安倍首相はいまこそ、天皇国日本の宰相として、そして保守を自任する政治家として、陛下のご聖断を仰ぎ、以って皇統護持の実を挙げるべきである。

九条「加憲」の不可解

   安倍首相は、憲法九条の一項と二項を残しつつも、新たに付け加えた三項で自衛隊の存在を明記すると言っているが、何がしたいのか全く意味不明である。

   周知の様に九条二項は、我が国の戦力不保持を明記しているが、この規定を温存したまま三項で自衛隊の存在を明記するということは、すなわち自衛隊は「戦力」ではなく、「必要最小限の実力」であるというこれまでの政府解釈を踏襲するということだ。

   しかし戦力でない軍隊など存在し得ないのであるから、これは自衛隊の「国軍化」を掲げたこれまでの自身の主張や自民党改憲草案とも明らかに矛盾するのみならず、自衛隊が軍隊としての抑止力ではない事をわざわざ内外に宣言し、さらには日夜公務に精励する自衛隊諸君の名誉を傷つけ、士気を阻喪せしめる愚行であると言わざるを得ない。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(七)楠正成

   楠正成(くすのきまさしげ)は、河内の人で、先祖は橘諸兄公(聖武天皇の御代の左大臣)で有名な橘氏であります。父の正康がその妻と共に志貴山の多聞天に祈って、正成を授かりましたので、幼名を多聞丸といいました。出生この様に奇しく、つとに将略の才に長じ、人に優れておりました。しかし河内に土着しておりましたので、あまり世に知られずにいました。
 時に元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は、鎌倉の執権北条高時が大兵を差し向けて都を攻めたので、それを避け給いて大和の笠置寺行幸されました。然るにその頃、天皇の為に力を尽して御難を救わんとする者がありませんでした。天皇大いに憂慮し給うておりました、そんなある夜に、まどろまれた天皇は一つの不思議な夢を御覧になりました。
 その夢というのは、紫宸殿の前に一つの大なる樹があって、その南方に当る枝が最も栄えておりましたから、天皇はやがてその枝の下に玉座を設けて百官を召集えられました。然るに忽ち、童子が何処ともなく御前に来り跪いて、玉座を指さして泣きながら奏しあげて曰く、今や天下はどこにも陛下を容れ給うところはないが、ただこの座ばかりが御安泰に在らせ給うことができるのみ、と。
 こういう夢を見給うて御目が覚めたのであります。そこでいかなる夢告(しらせ)かと親しくこれを占い給うたところ、まず木の偏に南というは楠である、されば楠を以て氏とする者があって、朕を助け目下の危難を救うであろうということが分かりました。天皇はすぐに寺の僧快元を召し給い、この辺に楠を以て氏とせるものがあるか問わせられました。快元はこの辺に楠正成と申すものがありまして、武略大に優れたる名将でありますと御答え申した。これを聴き給うたる天皇は大いに悦ばせ給い、すぐに藤原藤房を使として送らせられました。
藤房、河内の金剛山にいます正成を訪ね、御前へ出るように御命じになりました。正成は悦び勇み、藤房に伴われて行在所へ詣でましたところ、天皇は万事を汝に託すぞと宣べ、且つ賊兵を防ぐための謀を問わせ給いました。そこで正成は感泣して、一々これに御答えを申し上げ、成敗は兵家の常であれば僅少の敗軍のために聖慮を煩わすこと勿れ、臣(私)の存する限りは必ず敵を討ち平らげて御覧に入れましょうと誓われました。行在所を去りて、帰って赤坂城を築いて戦い、後には金剛山に立てこもりました。常に鎌倉方の百万もの兵に対して、わずか千余人の兵を以て敵を悩まし、北条氏をして奔走に疲れしめたので、その隙に新田義貞が鎌倉へ攻め入り、難なく北条氏を滅ぼすことができたのであります。ここに車駕(天皇が乗られる車)はめでたく京師へ還り給うこととなったのです。世にこれをもって、建武中興の大業と申すのであります。
然るにその後、足利高氏が朝廷に背きました。楠正成等のために一度は破られて九州へ逃げましたが、再び五十万からの大軍を率いて攻め上ってきました。正成は七百の兵を以て湊川に陣して好戦しましたが、衆寡敵せず、前後より敵を受けて遂に戦死したのであります。享年四十三でありました。天皇大いにこれを悼み給い、正三位左近衛中将を贈られましたが、明治に至りて更に位を贈られました。これ皆その精忠を誉めさせられたのであります。
   ここに正成が湊川に陣するに至った有名な話があります。正成が湊川に陣したのはその本意ではありませんでした。正成は一度京師を離れ、高氏を京師に誘い入れ、新田義貞と共に挟み撃ちにすることを謀り、進言致しましたが、他の公家たちに退けられ、用いられなかったのです。然るに正成は勅命を畏み、死して後已むの精神を以て、その尽くすべきところを十分に尽くしました。その間に一点の曇れる所のなきが、即ちその正成の至誠の致すところであります。
   されば討死の時に、弟正季と刺し違えて死にましたが、その際、正成が弟に向かい、汝は死して如何にするかと問われました。すると正季、願わくば七たび人間に生れて国賊を鏖(みなごろし)にせんと答えましたところ、正成は欣然として、それこそ我が思うところであると言って自決しました。生き残る一族十六人、従士五十余人、悉くその主正成に殉し自決して相果てたのであります。これ実に団結の強固なるを示せるもので、また以て、正成平生の撫育の一方ならぬを察することができます。
   後世、勤皇家といい尊皇愛国の精神に富める人といえば、直ちに正成を第一に挙げますのは全くかかる危難の際に当り、その純潔至誠の行動を為したからであります。

「憲法記念日」にあたって

   憲法記念日の今日は、戦後憲法が施行されてから七十年の節目である。安倍自民党は、改憲への意欲を改めて示しているが、その眼目は九条二項の改正による集団的自衛権の解禁と「日米同盟」の強化である。しかし、先般の安保法制によって事実上、九条二項は骨抜にされたのだから、いまさら改憲する必要もないだろう。

   戦後憲法の問題というと、よく空虚な「平和主義」が取り沙汰されるが、最大の問題は「国民主権」である。国民は主権者ではなく、主君たる天皇に仕える臣民である。したがって主権者でない国民に憲法を制定する権力はなく、憲法制定は天皇大権である。自民党を始め、我が国における自称保守政党は、あくまで国民主権を堅持し、国民投票による改憲を推進しているが、何れも国体の本義を理解していない証拠である。

   また自民党は、自衛隊の「国軍化」を謳っているが、何を以て「国軍」となすのか定かではない。単に機能的に自衛隊の行動範囲を「ポジティブ・リスト」から「ネガティヴ・リスト」に変更するだけでは、「国軍」とは言えない。我が国の「国軍」は、天皇を大元帥に戴く「皇軍」であって、真の「国軍化」とは、統帥権天皇に奉還して建軍の本義を正すことに他ならない。

   現在各党が憲法草案をまとめているが、如何なる現代の叡智を以てしても、大日本帝国憲法に優る憲法は出来ないと考える。現代の浅薄な価値基準で下手なものを作るよりも、祖宗の遺訓に立ち返るべきだ。

   また、現行憲法は戦後の占領下でアメリカに強制されたものであり、国民主権政教分離など、本来天皇主権、祭政一致の我が国体とは根本的に相容れない内容であることは確かであるが、かりそめにも先帝陛下が御裁可遊ばされた憲法を無効といって破り棄てることは出来ない。

   したがって、我々がなすべきは、国民投票による憲法改正ではなく、現行憲法の廃止を陛下に奏請して御裁可を仰ぎ、大日本帝国憲法を復活せしめることである。それ以外に方法は無いと考える。

朝鮮学校への補助金打ち切りについて

全国地方自治体による朝鮮学校への補助金打切りが相次いでいる。千葉市でもリベラル派と目される熊谷市長ですら、打ち切りを決断した。至極真っ当な判断だ。金主席を礼賛し、慰安婦など我が国の「侵略」責任を断罪する教育をするなら、我が国民の税金ではなく、北朝鮮の国費でやればいい。それに我が国は北朝鮮と国交がないのであるから、事実上の北朝鮮大使館である朝鮮総連や、その付属機関である朝鮮学校が我が国の主権下に存在すること自体がおかしい。断固排除すべきだ。

https://news.yahoo.co.jp/feature/589

主要農作物種子法廃止に抗議する!

結局、今国会で主要農作物種子法廃止法案(通称「モンサント法案」)は、メディアを通じた議論がほとんどなされないまま、あっさり可決されてしまったようだ。この種子法廃止によって、これまで都道府県に義務付けられてきた、稲、麦、大豆といった主要作物の種の生産や普及は根拠法を失い、民間企業の参入が加速すると思われる。問題なのは、この民間参入の拡大によって、モンサントなどの巨大外資が我が国に「高生産性」を売りにした遺伝子組み換え種子などを持ち込み、食の安全性を脅かすのみならず、種子への「特許権」を通じて、我が国の農業を実質的に支配する可能性があることだ。

どうやら、この国民のほとんど誰も知らない種子法廃止を提言したのは、首相の諮問機関である「規制改革推進会議」及び「未来投資会議」のようであるが、そのメンバーを見ると、むべなるかな、竹中平蔵を始め、小泉構造改革の残党、グローバル資本の走狗と化した売国新自由主義者達が名を連ねている。彼らの狙いは、国家の戦略物資である種子、さらには国家独立の根幹である農業をグローバル資本に売り渡すことに他ならない。またその策動に乗った安倍政権もまた「売国政権」の汚名を免れない。断固抗議する。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(六)日野俊基

   日野俊基(ひのとしもと)は大学頭種範の子で、若くして少納言、大内記に任ぜられ、元亨三年(1323年)には蔵人頭に補せられました。世々儒を以て業とし、才学人に優れておりましたので、後醍醐天皇の寵愛せられるところとなりました。

   俊基、中納言日野資朝(すけとも)と共に倒幕と皇政復古を志し、密かに姿を変じて山伏となり、畿内、関東、西海を遊歴して、要害、風俗を見究め、京師に帰るや、資朝と共に学問研究の為の会合に名を借りて密談を行い、勤皇の志士を募りました。

    ところがこの謀洩れ、資朝は直ちに鎌倉に捕えられました。資朝、旨く弁解しましたから、俊基はその刑を免れることができ、一時京師に帰り、元弘元年(1331年)には右中弁に進みました。然るに不幸にして、その後に僧文観、忠円等捕えられて悉く朝廷の謀を告げましたから、俊基は再び捕えられて鎌倉に送られました。そこで俊基は逃るべからざるを悟り、菊川という駅(現在の静岡県菊川市)に到れる頃、宿屋の柱に和歌を題しました。

   古もかゝる例を菊川の (いにしえも かかるためしを きくがわの)

同じ流れに身をや沈めん (おなじながれに みをやしづめん)

   これは承久の変に藤原宗行という人がこの菊川にて刑せられたから、これを思い出してかく詠んだものでありましょう。

   かくて天皇隠岐に遷され給うに及び、俊基は遂に葛岡原にて殺されました。時に俊基は資朝と同じく左の偈(げ)を作り、従容として死に就きました。

古来一句(古来一句)    

無死無生(死無し生無し)  

萬里雲盡(萬里雲盡き)   

長江水清(長江水清し)   

(意訳)

古来より「死もなく生もない」という言葉がある。自分も精一杯頑張ったが、残念ながら、万里の果てに雲が尽きる様に、今は万策尽き果て、この様な結末となったが、理想の為に力尽きたのだから、生や死はもはや問題ではなく、少しの恨みもない。今は、長江の水が清らかな如く、自分の心は一点のけがれもなく、さわやかである。

   俊基の死するや、家臣後藤助光という人がその屍を焼き、骨を高野山に葬ったといいます。