維新政党日本

我が国日本の真正なる独立を目指します。

田母神俊雄氏の新著『日本の敵』(KKベストセラーズ)を読んだ。

田母神俊雄氏の新著『日本の敵』(KKベストセラーズ)を読んだ。周知の様に、著者は、平成二十六年に出馬した東京都知事選挙に絡む業務上横領と公職選挙法違反の容疑で逮捕された。業務上横領では、政治資金を私的に流用し、また公選法違反では、選挙運動員への金銭授与を指示した疑いがかけられたが、今年平成二十九年五月の初審判決では前者については無罪、後者については執行猶予付有罪判決が言い渡されている。著者に悪意はなく、法律違反を犯した事実はないと信じているし、昨年五月の参院選への出馬を控えたタイミングでの突然の逮捕に、何か検察による政治的な思惑の臭いを感じざるをえないが、それでもチャンネル桜の水島聡社長の様な「偽装保守」を安易に信用し、水島社長が紹介した人物を選対事務局長、会計責任者に据えて、政治資金を一任してしまったこと、金銭授与に関する著者の指示はなかったとはいえ、そもそも金銭授与が法律違反であることを知らず、選対事務局長から金を配る許可を求められた時に明確な否定をしなかったこと、等に対する落ち度は拭えない。

とはいえ、著者は日本にとって必要な人物であることは間違いがない。それは、著者が我が国の保守運動のなかでも数少ない「真正保守」の人物だからである。世の保守論壇の大勢は、中国や韓国北朝鮮を敵視し、「日米同盟」に頼って我が国の安全を維持しようという親米論であるが、著者はそもそもアメリカへの従属政策が我が国の独立を阻害し、中曽根内閣ではF2戦闘機の自主開発がアメリカの要求で共同開発にされ、小泉内閣では、アメリカの「年次改革要望書」基づく構造改革によって我が国の社会が根本から破壊された事実を述べ、北朝鮮の脅威をいたずらに宣伝するのは、日本に高額なミサイル防衛システムを売り付ける為のアメリカの策略であることを明確に見抜いている。無論、中国や韓国、北朝鮮は我が国の主権を脅威する「敵」であり、著者もその事を述べているが、だからといって自主防衛を放棄し、アメリカの軍門に下って国防を一任しては本末顛倒である。その意味で、著者の根底を成す考えは、日本以外の国は全て仮想敵であるという独立国の指導者として本来当然の安全保障観なのであり、それこそが我が国世論の大勢を占める親米反中保守と親中反米リベラルの何れとも一線を画する著者の真面目であり、「真正保守」たる所以である。著者は本著のなかで、現在の安倍内閣に対する直接的な批判は避けているが、従来の対米従属を強化し、小泉・竹中の構造改革路線を踏襲する現内閣は、チャンネル桜の水島社長と同類の「偽装保守」である。

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「瑞穂の国」を破壊する農協改革

三橋貴明氏の『亡国の農協改革』(2015、飛鳥新社)を読んでいて、怒りが込み上げてきた。安倍首相は、政権奪還をかけた2012年12月の総選挙を前に、『文藝春秋』で次の様に述べている。
「日本という国は古来から朝早く起きて、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈って来、『瑞穂の国』であります。自助自立を基本とし、不幸にして誰かが病に倒れれば、村の皆でこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです。
 私は瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい資本主義があるだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかしウォール街から世界を席巻した、強欲資本を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形があります。
 安倍家のルーツは長門市、かつての油谷町です。そこには、棚田があります。日本海に面していて、水を張っているときは、ひとつひとつの棚田に月が映り、多くの漁り火が映り、それは息を飲むほど美しい。
 棚田は労働生産性も低く、経済合理性からすればナンセンスかも知れません。しかし、この美しい棚田があってこそ、私の故郷なのです。そして、その田園風景があってこそ、麗しい日本ではないかと思います。市場主義の中で、伝統、文化、地域が重んじられる、瑞穂の国にふさわしい経済のありかたを考えていきたいと思います。」
・・・
いまとなっては、もはやブラックジョークにしか聞こえないが、この似非「保守声明」に続けて、三橋氏は次のように述べる。「しかし現実の安倍政権は、瑞穂の国どころか、ウォール街に象徴される一部の投資家、企業家の利益ばかりを追求する「改革」を推進している。派遣労働者の拡大、外国人労働者の受け入れ、社会保障支出の削減、混合診療の解禁、発送電分離、TPP、地域間格差を認める地域創生策、そして農協改革。一体全体、どこが「瑞穂の国」の資本主義なのか。全ての政策が、外国人を含む一部の投資家や企業家といった富裕層を富ませ、国内において「国民の所得格差」「地域間格差」「企業間格差」と三つの格差を拡大していくばかりである。2012年に安倍総理大臣が表明した「瑞穂の国」の資本主義は、要するにウソだったことになる。」と。
 先のモンサント法案成立といい、郵政民営化の推進といい、第二次以降の安倍内閣は、竹中平蔵等、外資の走狗と共謀し、我が国独立の基盤をなす農業や地方社会を根底から破壊する「改革」を推し進めている。

http://7net.omni7.jp/detail/1106579621

アベノミクスの矛盾

   安倍首相は、経済優先と言っているが、アベノミクスの成果とは何だろうか。よく言われるのは、民主党時代よりも株価は二倍になり、失業率が低下して有効求人倍率が上昇し、上場企業の収益が過去最高になった事などであろうが、株価が上がったのは、日銀が「異次元の金融緩和」で金融市場に金をばら撒き、GPIFが株を買いまくっているのだから当たり前の事であるし、失業率が下がっているのも、そもそも少子化によって生産年齢人口が減り、女性の労働参加や非正規雇用が増えているのであるから当たり前である。また上場企業の過去最高収益は、上場企業の増加や法人減税、海外子会社からの収益が要因とされるが、大企業が幾ら儲かっても、労働分配率はむしろ下がっており、労働者の実質賃金はほとんど上がっていない。我が国の株式市場は、既に外国人持株比率が三割を超えているため、株高は一部の外資や投資家に莫大なキャピタル・ゲインや配当をもたらす一方で、企業の利益は労働者に還元されず、長期的な設備投資は伸び悩んでいる。

   本来、安倍首相の経済政策における最優先課題は、「デフレからの脱却」であったはずであるが、日銀による「異次元の金融緩和」は、実体経済に対して無力であることが露呈した。デフレから真に脱却するには、家計消費と設備投資を促さねばならないが、上述した様に実質賃金は上がらず、設備投資は低迷している。その原因は、我が国の大企業が潤沢な内部留保を抱えているにもかかわらず、外資を始めとする株主の利益が優先され、賃金や設備投資に金が回らないからだ。

   さらに家計消費と設備投資に加えて、政府は財政支出を増やすことで、総需要を拡大する必要があるが、周知の様に、安倍首相は郵政民営化や農協の解体を推し進めることで、我が国の金融市場を外資に明け渡し、政府の国債発行による資金調達を困難にしている。
   つまり、アベノミクスは、岩盤規制の撤廃と称して、我が国の国民資産を外資に売り渡し、本来の目的であったデフレからの脱却のための基盤を根本から掘り起こしているのである。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十二)兒島高徳

   兒島高徳(こじまたかのり)は、備前の人で、幼い頃より読書を好み、それによって大いに尊皇の大義を弁え、一日兵を集めて勤皇の旗を挙げました。時に後醍醐天皇笠置山に御在し、高徳に錦旗を賜いました。
 ところが幾ばくもなく、笠置山は陥り、天皇は賊のために隠岐に流され給うこととなりました。これを聞きて高徳は憤慨し、志士の起つべきはこの時なりと、車駕を隠岐に行く途中で奪わんと企て、舟坂山に上り、車駕の通過するのを待っておりました。そして、車駕が山陰道に向かうのを確認するや、高徳は賤しい服を着て抜け道を通り、車駕の後を追いかけました。遂に隠岐に入り、行在所の庭に忍び込み、桜の木を切って、これに次の二句を書き付けて去りました。

天莫空勾践(天、勾践を空しくする莫れ)
時非無范蠡(時に范蠡、無きにしも非ず)

これはシナの故事を引き、越王勾践(こうせん)が范蠡(はんれい)の力を借りてその国を回復したように、天皇にも今に味方して車駕を迎え出る范蠡があるとの意を示したものであります。衛士はこれを見てもその意を知らず、天皇に申し上げたところ、天皇これを御覧じて心ひそかに喜び給うたのであります。
 かくして後、天皇舟坂に在わす時、高徳はその父と共に一族を率いてこれに詣で、千種忠顯に属して六波羅を攻めましたが、忠顯の卑怯なるために戦い敗れました。その後も賊と各所にて戦い、勤皇の志士として奮戦しました。
 足利高氏が反逆するや、高徳は義兵を募りて千余人を得て、これを近郊に分かち置きて、高氏を狙撃せしめんと企てました。ところが高氏これを察し、兵を遣わして兵の隠れたる壬生を攻めましたから、高徳は信濃に奔り、髪を剃り、志純と号しました。
 時に天皇、男山に還り、京師を復さんと謀り給うや、高徳は勅を奉じて東北に赴き、諸国に諭して行在の急なることを告げました。そこで各将軍ら兵を発して救わんとしましたが、その軍達せぬ先に男山は陥落してしまったのです。
 かくして後、高徳の行方は分からぬこととなりましたから、世の人の中には、かかる人物(高徳のこと)は存在せずと説く学者もありますが、それは余りにも速断であります。しかし一方で、世に有名なる『太平記』の書は兒島法師の作とも言われ、即ち高徳が法体になってよりの著述であろうという説もあります。これは学問が深く、勤皇の志士であった兒島高徳であれば、無きにしもあらずではないでしょうか。

加計問題よりも深刻なアフラック問題

「国家戦略特区」に乗じた加計学園への利益誘導が問題なら、「郵政民営化」に乗じたアフラックへの利益誘導は百倍問題である。我が国の公的ネットワークである郵便局で、「アメリカン」ファミリー生命が独占的にガン保険を販売するのは、国家による外資への巨大な利益誘導、対米従属の権化以外の何物でもない。日本郵政アフラックの「事業提携」は、TPP交渉の負の遺産である。日本郵政はそもそも日本生命と事業提携しており、郵政グループにはかんぽ生命も存在する。しかし、政府はTPP交渉での手土産として、アメリカに郵便局でのガン保険販売利権を供与し、その為に日本郵政日本生命との事業提携を反故にし、かんぽ生命は自社商品の開発を断念した。アフラックは、我が国に対し、「政府出資の日本郵政ガン保険民業圧迫だ」と主張したが、アフラックこそ民業圧迫だ。政府による郵政民営化によって、自国企業の公正な競争が阻害され、国民資産が外資の食い物にされている。この巨悪こそ問題とされるべきだ。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十一)名和長年

   名和一族は伯耆国(現在の鳥取中西部)の人で、代々地頭をしており、資産豊かにして一族盛んでありました。その中で生まれた長年、初めは長高と名乗っておりました。幼い頃より勇健でよく弓を射ましたから、その国の人に畏れられておりました。
 元弘三年(1333年)、後醍醐天皇隠岐に流され給うや、天皇は衛士の中で忠義を尽していた者に、近国に大事を託すべき者は誰かと、問わせられました。衛士はいずれも長年を第一として挙げました。時に長年の弟行氏も衛士中におりましたから、天皇これを召し、帰りて長年を諭して車駕を迎えさせしめよと、申しつけられました。
 そこで行氏は、千種忠顯と共に海を渡りて伯耆に到り、命を伝えたところ、長年これを聴きて涙を流して曰く、天子よりかかる大事を託せらるるというは家門の栄誉これに過ぎたるものはなしと、直ちに命を奉じて、衆を率いて天皇を迎え奉りました。
 天皇と共に船上山へと赴いた長年は、村の民を募り、己が倉の穀物を山上に運ぶ者には人毎に銭五百を給すと令し、その日に五千余石を山上に運び、決死の覚悟を定めて己が家を焼き払い、一族百五十人を率いて山上を守りました。そこで長年、近国将士の旗印を描き、諸国より来たり集まったが如くに見せかけました。
 その所に、佐々木清高、昌綱の両人、兵三千を率いて攻めましたが、山上の旗印を望んで驚き、敢えて進みませんでした。しかし、実際に兵は少なかったので、長年は家人に令し、皆に木陰に隠れさせて、矢を射らしめて、日暮れを待ちました。その時放たれた矢は命中せぬものはなく、敵将昌綱はその矢に当って死にました。また、敵将清高攻めて来たところ、長年は弓で四人を射殺し、折しも起れる雷雨に乗じ、敵軍に突撃しましたから、賊軍大いに崩れさり、死する者は数知れず、清高も命からがら逃れました。
 ここにおいて近国の将士来り集り、遂に京師回復の大挙を図るに至りました。天皇は長年の大功を賞し給い、長高という名は危うしとして、長年と改めしめ、左衛門尉兼伯耆守に任じ、家の徴として、帆舟を天皇親ら描きてこれを賜いました。これは船上山の名と隠岐を逃れ給うた記念として、かく筆を染め給うたものであります。
 幾ばくもなく、足利高氏鎌倉に反し、新田義貞これを征討することとなるや、長年は楠木正成と共に留まりて京師を守り、高氏が京師を犯せる時には、長年は兵二千余人を以て勢多の橋を守っておりました。然るに官軍敗れ、車駕延暦寺に御幸されると聞き、長年兵三百を以て京師に帰りましたところ、賊等その帆舟の徴を認めて遮り撃ちました。これと戦うこと数十回、ために死する者半数に達しました。漸く禁門に詣でたところ、宮中に人無きを見て長年は振り返って涙を流し、遂に行在所に詣で、諸将と力を合わせて高氏を討ち、車駕を奉じて京師に入りました。
 ところが高氏、再び来り攻めましたから、またもや車駕を奉じて延暦寺に従い、高氏の兵が東坂を犯すや、長年は脇屋義助と共に撃ちてこれを退け、新田義貞と共に高氏を京師に攻めました。
 長年が白鳥という所を過ぎる頃、路傍の人相語りて曰く、三木一草の中、僅かに一木のみ残って居ると。(三木は結城「キ」、伯耆「キ」、楠木「キ」の三人のこと。結城は結城親光伯耆伯耆守である名和長年、楠木は楠木正成。一草は千種忠顯のこと。)これを聞いた長年は、戦い利あらずと一旦退き、自らの門を背にして奮闘し、従弟信貞および一族二百人と共に戦死したのであります。
(下は長年と名和氏の家紋)

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十)新田義興

   新田義貞の一族には猛将勇士が多くおりました。義貞の弟脇屋義助は常に義貞と謀を合わせて皇事に尽し、義貞の長子義顕もまた父の意を受け継いで勤皇の旗を翻しました。義助、義顕、共に大いに官軍の為に力を尽しましたが、力及ばずして倒れました。その時義貞の第二子に義興(よしおき)が出まして、一時大いに関東にて官軍を盛んならしめたのであります。
 義興は幼名を徳壽丸といい、母が賤しかったので、父義貞に愛されず、そのために上野に止まっておりましたが、延元二年(1337年)鎮守府将軍源顕家、鎌倉を攻めんとし、軍を進めて武蔵国府に至りましたから、義興は兵三万の将としてこれに応じ、共に鎌倉を攻めてこれを抜きました。それより顕家と西行し、翌年春には上杉実顕を青野原に破りました。後に顕家薨ずるや、その弟少将顕信に従いて京師に入り男山にて賊軍と戦いました。しかし不幸にして官軍敗北しましたから、義興は奔りて吉野の行宮に詣でたのです。
 時に後醍醐天皇引見してその才器を嘉(よみ)し給い、汝宜しく父の家を興すべしと、御前にて冠を加え、義興という名を賜い、左兵衛佐を授け給うたのであります。そこで義興は君恩に感激し、命を奉じて東国に向かい、正平七年(1352年)には兵を起こして鎌倉を攻め、足利高氏の弟基氏と戦い、攻戦数月に亘りて一勝一敗あり、大いに足利氏を悩ましたのでした。
 そこで、足利基氏の家臣畠山国清は、かつて義興の部下であった竹澤良衡という者を義興に近づけ、謀を以て義興を嵌めんとしました。良衡は義兄弟なる高重と謀り、義興を城に招き寄せ、義興はかかる深き企みありとも知らず、僅かに十余人と暁に乗じて鎌倉に向かいました。そこで良衡、高重は予め舟に穴をあけておいてそれに栓をし、矢口渡(やぐちのわたし)に義興以下主従を迎え乗せました。中流に至るや、舟人は突如としてその栓を抜き、自分だけ逃れ去りました。そしてまさに舟の沈没せんとする時に、良衡等は伏兵を並び起こして箙(えびら)を叩いてこれを笑ったのであります。
 義興はその欺かれたるを悔い、切歯して罵りて曰く、汝等不道、予を欺き死に到らしむ。さればこの怨みいかで忘れん。七たび生れ代りて汝らに讐せんのみと。遂に一族十余人と共に自害して相果てました。その時、土肥三郎左衛門、南瀬口五郎、市川五郎の三人は衣を脱ぎ、刀を咥えて水に飛び込み、泳いで岸に達して、敵五人を斬り、十三人を傷つけて遂に戦死しました。そこで良衡高重等は義興の首級を得て、基氏に入間川の陣営にて謁し、大いに褒賞せられました。
 然るに高重、漸く帰りて矢口渡に至るや、舟人たちが酒肴を載せて、大いに酒宴しておりました。そして舟が高重を出迎えんとして、川の中流に至ったと思う頃に、一天俄に掻き曇りて雷雨忽ち至り、渦波は高く湧き、舟はそのために覆って舟人悉く溺れ死にました。それを岸より見ていた高重は驚き畏れ、走り駆けりて引き返すこと数里、一塊の黒雲は不思議にもその頭上を蔽いて去らず、さらにはその雲の中に義興の姿がありありと顕れ、龍の冑を着て、白馬に跨って追いかけられ、己に向かって射かかろうとしているのが見えました。高重は仰天して落馬し、気絶して家に運ばれましたが、それより狂気の如く水に溺れる様を為し、七日目に悶え死んだのでありました。
 一方、畠山国清はその後、陣営中にて義興の恐ろし気なる姿を夢に見て、鬼が義興に従い火の車を挽いて陣所に入ったのを見ました。それと同時に雷火あって入間川の民家三百戸を焼きましたから、国清を始め良衡等は大いに戦慄したのであります。かくして後にも、矢口渡にはしばしば怪火を認めましたから、これ全く義興の霊の祟りを為す所と思い、辺りの人々大いにその霊を畏れ、祠を建てて義興を祀りました。それが今六郷川の畔の矢口渡にある新田大明神であります。七生賊滅とは蓋し此の如きでありましょうか。(画像は、歌川国芳作 『矢ノ口渡合戦にて義興戦死図』)

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