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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十)新田義興

   新田義貞の一族には猛将勇士が多くおりました。義貞の弟脇屋義助は常に義貞と謀を合わせて皇事に尽し、義貞の長子義顕もまた父の意を受け継いで勤皇の旗を翻しました。義助、義顕、共に大いに官軍の為に力を尽しましたが、力及ばずして倒れました。その時義貞の第二子に義興(よしおき)が出まして、一時大いに関東にて官軍を盛んならしめたのであります。
 義興は幼名を徳壽丸といい、母が賤しかったので、父義貞に愛されず、そのために上野に止まっておりましたが、延元二年(1337年)鎮守府将軍源顕家、鎌倉を攻めんとし、軍を進めて武蔵国府に至りましたから、義興は兵三万の将としてこれに応じ、共に鎌倉を攻めてこれを抜きました。それより顕家と西行し、翌年春には上杉実顕を青野原に破りました。後に顕家薨ずるや、その弟少将顕信に従いて京師に入り男山にて賊軍と戦いました。しかし不幸にして官軍敗北しましたから、義興は奔りて吉野の行宮に詣でたのです。
 時に後醍醐天皇引見してその才器を嘉(よみ)し給い、汝宜しく父の家を興すべしと、御前にて冠を加え、義興という名を賜い、左兵衛佐を授け給うたのであります。そこで義興は君恩に感激し、命を奉じて東国に向かい、正平七年(1352年)には兵を起こして鎌倉を攻め、足利高氏の弟基氏と戦い、攻戦数月に亘りて一勝一敗あり、大いに足利氏を悩ましたのでした。
 そこで、足利基氏の家臣畠山国清は、かつて義興の部下であった竹澤良衡という者を義興に近づけ、謀を以て義興を嵌めんとしました。良衡は義兄弟なる高重と謀り、義興を城に招き寄せ、義興はかかる深き企みありとも知らず、僅かに十余人と暁に乗じて鎌倉に向かいました。そこで良衡、高重は予め舟に穴をあけておいてそれに栓をし、矢口渡(やぐちのわたし)に義興以下主従を迎え乗せました。中流に至るや、舟人は突如としてその栓を抜き、自分だけ逃れ去りました。そしてまさに舟の沈没せんとする時に、良衡等は伏兵を並び起こして箙(えびら)を叩いてこれを笑ったのであります。
 義興はその欺かれたるを悔い、切歯して罵りて曰く、汝等不道、予を欺き死に到らしむ。さればこの怨みいかで忘れん。七たび生れ代りて汝らに讐せんのみと。遂に一族十余人と共に自害して相果てました。その時、土肥三郎左衛門、南瀬口五郎、市川五郎の三人は衣を脱ぎ、刀を咥えて水に飛び込み、泳いで岸に達して、敵五人を斬り、十三人を傷つけて遂に戦死しました。そこで良衡高重等は義興の首級を得て、基氏に入間川の陣営にて謁し、大いに褒賞せられました。
 然るに高重、漸く帰りて矢口渡に至るや、舟人たちが酒肴を載せて、大いに酒宴しておりました。そして舟が高重を出迎えんとして、川の中流に至ったと思う頃に、一天俄に掻き曇りて雷雨忽ち至り、渦波は高く湧き、舟はそのために覆って舟人悉く溺れ死にました。それを岸より見ていた高重は驚き畏れ、走り駆けりて引き返すこと数里、一塊の黒雲は不思議にもその頭上を蔽いて去らず、さらにはその雲の中に義興の姿がありありと顕れ、龍の冑を着て、白馬に跨って追いかけられ、己に向かって射かかろうとしているのが見えました。高重は仰天して落馬し、気絶して家に運ばれましたが、それより狂気の如く水に溺れる様を為し、七日目に悶え死んだのでありました。
 一方、畠山国清はその後、陣営中にて義興の恐ろし気なる姿を夢に見て、鬼が義興に従い火の車を挽いて陣所に入ったのを見ました。それと同時に雷火あって入間川の民家三百戸を焼きましたから、国清を始め良衡等は大いに戦慄したのであります。かくして後にも、矢口渡にはしばしば怪火を認めましたから、これ全く義興の霊の祟りを為す所と思い、辺りの人々大いにその霊を畏れ、祠を建てて義興を祀りました。それが今六郷川の畔の矢口渡にある新田大明神であります。七生賊滅とは蓋し此の如きでありましょうか。(画像は、歌川国芳作 『矢ノ口渡合戦にて義興戦死図』)

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