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シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十三)北畠親房

我国が南北両朝に分れて互いに雌雄を争った時に、『神皇正統記』を著して南朝が正統であることを論じ、いわゆる大義名分を明らかにしたのは、北畠親房(きたばたけちかふさ)であります。親房は第六十二代村上天皇の第七皇子、具平(ともひら)親王の後裔で、権大納言師重(もろしげ)の子、顕家の父であります。北畠家は、村上源氏嫡流として代々朝廷に仕えた名門です。

 元亨三年(1323年)には大納言に進み、世良親王の傅(輔佐役)となりました。しかるに元徳二年(1330年)に親王が薨じ給うたので、親房は大いにこれを悲しみ、髪を剃って宗玄と号しました。ところが、元弘元年(1331年)に後醍醐天皇隠岐の島より還幸されて、政を親(みずか)らせらるるに至り、親房は再び仕えることになりました。
 時に足利高氏が反乱を起こし、延元元年には京師を犯し攻めましたから、親房は天皇の車駕に従って、延暦寺に赴きました。間もなく天皇が高氏の言を聞きて京師に帰られましたが、親房は高氏に従うことを欲せず、伊勢に向かいました。
 延元三年(1338年)、親房の子、顕信(あきのぶ)が陸奥鎮守府将軍となり、陸奥に赴くや、親房はこれを助けんとして出発しました。途中、海上にて台風に逢い、常陸の国に漂着し、そこにもまた敵兵が来り攻めましたので、親房は小田城へと向かいました。そこに隆良親王を迎えて、これを奉じておりましたが、城主小田治久が敵将高師冬(こうのもろふゆ)に降りましたから、親房もまた逃れました。逃れること数回に渡り、親房は止むなく吉野の行宮に還ったのでした。
 その後も親房、一意王家の為に尽しましたが、不幸にも諸事、意の如くならず、正平九年(1354年)に賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)にて薨じたのでありました。紆余曲折の人生ではありましたが、生前に親房が残した『神皇正統記』は大義名分を明らかにし、その後多くの憂国の志士の触れるところとなり、尊皇精神を世に伝えていったのであります。