維新政党日本

我が国日本の真正なる独立を目指します。

「瑞穂の国」を破壊する農協改革

三橋貴明氏の『亡国の農協改革』(2015、飛鳥新社)を読んでいて、怒りが込み上げてきた。安倍首相は、政権奪還をかけた2012年12月の総選挙を前に、『文藝春秋』で次の様に述べている。
「日本という国は古来から朝早く起きて、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈って来、『瑞穂の国』であります。自助自立を基本とし、不幸にして誰かが病に倒れれば、村の皆でこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです。
 私は瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい資本主義があるだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかしウォール街から世界を席巻した、強欲資本を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形があります。
 安倍家のルーツは長門市、かつての油谷町です。そこには、棚田があります。日本海に面していて、水を張っているときは、ひとつひとつの棚田に月が映り、多くの漁り火が映り、それは息を飲むほど美しい。
 棚田は労働生産性も低く、経済合理性からすればナンセンスかも知れません。しかし、この美しい棚田があってこそ、私の故郷なのです。そして、その田園風景があってこそ、麗しい日本ではないかと思います。市場主義の中で、伝統、文化、地域が重んじられる、瑞穂の国にふさわしい経済のありかたを考えていきたいと思います。」
・・・
いまとなっては、もはやブラックジョークにしか聞こえないが、この似非「保守声明」に続けて、三橋氏は次のように述べる。「しかし現実の安倍政権は、瑞穂の国どころか、ウォール街に象徴される一部の投資家、企業家の利益ばかりを追求する「改革」を推進している。派遣労働者の拡大、外国人労働者の受け入れ、社会保障支出の削減、混合診療の解禁、発送電分離、TPP、地域間格差を認める地域創生策、そして農協改革。一体全体、どこが「瑞穂の国」の資本主義なのか。全ての政策が、外国人を含む一部の投資家や企業家といった富裕層を富ませ、国内において「国民の所得格差」「地域間格差」「企業間格差」と三つの格差を拡大していくばかりである。2012年に安倍総理大臣が表明した「瑞穂の国」の資本主義は、要するにウソだったことになる。」と。
 先のモンサント法案成立といい、郵政民営化の推進といい、第二次以降の安倍内閣は、竹中平蔵等、外資の走狗と共謀し、我が国独立の基盤をなす農業や地方社会を根底から破壊する「改革」を推し進めている。

http://7net.omni7.jp/detail/1106579621

アベノミクスの矛盾

   安倍首相は、経済優先と言っているが、アベノミクスの成果とは何だろうか。よく言われるのは、民主党時代よりも株価は二倍になり、失業率が低下して有効求人倍率が上昇し、上場企業の収益が過去最高になった事などであろうが、株価が上がったのは、日銀が「異次元の金融緩和」で金融市場に金をばら撒き、GPIFが株を買いまくっているのだから当たり前の事であるし、失業率が下がっているのも、そもそも少子化によって生産年齢人口が減り、女性の労働参加や非正規雇用が増えているのであるから当たり前である。また上場企業の過去最高収益は、上場企業の増加や法人減税、海外子会社からの収益が要因とされるが、大企業が幾ら儲かっても、労働分配率はむしろ下がっており、労働者の実質賃金はほとんど上がっていない。我が国の株式市場は、既に外国人持株比率が三割を超えているため、株高は一部の外資や投資家に莫大なキャピタル・ゲインや配当をもたらす一方で、企業の利益は労働者に還元されず、長期的な設備投資は伸び悩んでいる。

   本来、安倍首相の経済政策における最優先課題は、「デフレからの脱却」であったはずであるが、日銀による「異次元の金融緩和」は、実体経済に対して無力であることが露呈した。デフレから真に脱却するには、家計消費と設備投資を促さねばならないが、上述した様に実質賃金は上がらず、設備投資は低迷している。その原因は、我が国の大企業が潤沢な内部留保を抱えているにもかかわらず、外資を始めとする株主の利益が優先され、賃金や設備投資に金が回らないからだ。

   さらに家計消費と設備投資に加えて、政府は財政支出を増やすことで、総需要を拡大する必要があるが、周知の様に、安倍首相は郵政民営化や農協の解体を推し進めることで、我が国の金融市場を外資に明け渡し、政府の国債発行による資金調達を困難にしている。
   つまり、アベノミクスは、岩盤規制の撤廃と称して、我が国の国民資産を外資に売り渡し、本来の目的であったデフレからの脱却のための基盤を根本から掘り起こしているのである。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十二)兒島高徳

   兒島高徳(こじまたかのり)は、備前の人で、幼い頃より読書を好み、それによって大いに尊皇の大義を弁え、一日兵を集めて勤皇の旗を挙げました。時に後醍醐天皇笠置山に御在し、高徳に錦旗を賜いました。
 ところが幾ばくもなく、笠置山は陥り、天皇は賊のために隠岐に流され給うこととなりました。これを聞きて高徳は憤慨し、志士の起つべきはこの時なりと、車駕を隠岐に行く途中で奪わんと企て、舟坂山に上り、車駕の通過するのを待っておりました。そして、車駕が山陰道に向かうのを確認するや、高徳は賤しい服を着て抜け道を通り、車駕の後を追いかけました。遂に隠岐に入り、行在所の庭に忍び込み、桜の木を切って、これに次の二句を書き付けて去りました。

天莫空勾践(天、勾践を空しくする莫れ)
時非無范蠡(時に范蠡、無きにしも非ず)

これはシナの故事を引き、越王勾践(こうせん)が范蠡(はんれい)の力を借りてその国を回復したように、天皇にも今に味方して車駕を迎え出る范蠡があるとの意を示したものであります。衛士はこれを見てもその意を知らず、天皇に申し上げたところ、天皇これを御覧じて心ひそかに喜び給うたのであります。
 かくして後、天皇舟坂に在わす時、高徳はその父と共に一族を率いてこれに詣で、千種忠顯に属して六波羅を攻めましたが、忠顯の卑怯なるために戦い敗れました。その後も賊と各所にて戦い、勤皇の志士として奮戦しました。
 足利高氏が反逆するや、高徳は義兵を募りて千余人を得て、これを近郊に分かち置きて、高氏を狙撃せしめんと企てました。ところが高氏これを察し、兵を遣わして兵の隠れたる壬生を攻めましたから、高徳は信濃に奔り、髪を剃り、志純と号しました。
 時に天皇、男山に還り、京師を復さんと謀り給うや、高徳は勅を奉じて東北に赴き、諸国に諭して行在の急なることを告げました。そこで各将軍ら兵を発して救わんとしましたが、その軍達せぬ先に男山は陥落してしまったのです。
 かくして後、高徳の行方は分からぬこととなりましたから、世の人の中には、かかる人物(高徳のこと)は存在せずと説く学者もありますが、それは余りにも速断であります。しかし一方で、世に有名なる『太平記』の書は兒島法師の作とも言われ、即ち高徳が法体になってよりの著述であろうという説もあります。これは学問が深く、勤皇の志士であった兒島高徳であれば、無きにしもあらずではないでしょうか。

加計問題よりも深刻なアフラック問題

「国家戦略特区」に乗じた加計学園への利益誘導が問題なら、「郵政民営化」に乗じたアフラックへの利益誘導は百倍問題である。我が国の公的ネットワークである郵便局で、「アメリカン」ファミリー生命が独占的にガン保険を販売するのは、国家による外資への巨大な利益誘導、対米従属の権化以外の何物でもない。日本郵政アフラックの「事業提携」は、TPP交渉の負の遺産である。日本郵政はそもそも日本生命と事業提携しており、郵政グループにはかんぽ生命も存在する。しかし、政府はTPP交渉での手土産として、アメリカに郵便局でのガン保険販売利権を供与し、その為に日本郵政日本生命との事業提携を反故にし、かんぽ生命は自社商品の開発を断念した。アフラックは、我が国に対し、「政府出資の日本郵政ガン保険民業圧迫だ」と主張したが、アフラックこそ民業圧迫だ。政府による郵政民営化によって、自国企業の公正な競争が阻害され、国民資産が外資の食い物にされている。この巨悪こそ問題とされるべきだ。

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十一)名和長年

   名和一族は伯耆国(現在の鳥取中西部)の人で、代々地頭をしており、資産豊かにして一族盛んでありました。その中で生まれた長年、初めは長高と名乗っておりました。幼い頃より勇健でよく弓を射ましたから、その国の人に畏れられておりました。
 元弘三年(1333年)、後醍醐天皇隠岐に流され給うや、天皇は衛士の中で忠義を尽していた者に、近国に大事を託すべき者は誰かと、問わせられました。衛士はいずれも長年を第一として挙げました。時に長年の弟行氏も衛士中におりましたから、天皇これを召し、帰りて長年を諭して車駕を迎えさせしめよと、申しつけられました。
 そこで行氏は、千種忠顯と共に海を渡りて伯耆に到り、命を伝えたところ、長年これを聴きて涙を流して曰く、天子よりかかる大事を託せらるるというは家門の栄誉これに過ぎたるものはなしと、直ちに命を奉じて、衆を率いて天皇を迎え奉りました。
 天皇と共に船上山へと赴いた長年は、村の民を募り、己が倉の穀物を山上に運ぶ者には人毎に銭五百を給すと令し、その日に五千余石を山上に運び、決死の覚悟を定めて己が家を焼き払い、一族百五十人を率いて山上を守りました。そこで長年、近国将士の旗印を描き、諸国より来たり集まったが如くに見せかけました。
 その所に、佐々木清高、昌綱の両人、兵三千を率いて攻めましたが、山上の旗印を望んで驚き、敢えて進みませんでした。しかし、実際に兵は少なかったので、長年は家人に令し、皆に木陰に隠れさせて、矢を射らしめて、日暮れを待ちました。その時放たれた矢は命中せぬものはなく、敵将昌綱はその矢に当って死にました。また、敵将清高攻めて来たところ、長年は弓で四人を射殺し、折しも起れる雷雨に乗じ、敵軍に突撃しましたから、賊軍大いに崩れさり、死する者は数知れず、清高も命からがら逃れました。
 ここにおいて近国の将士来り集り、遂に京師回復の大挙を図るに至りました。天皇は長年の大功を賞し給い、長高という名は危うしとして、長年と改めしめ、左衛門尉兼伯耆守に任じ、家の徴として、帆舟を天皇親ら描きてこれを賜いました。これは船上山の名と隠岐を逃れ給うた記念として、かく筆を染め給うたものであります。
 幾ばくもなく、足利高氏鎌倉に反し、新田義貞これを征討することとなるや、長年は楠木正成と共に留まりて京師を守り、高氏が京師を犯せる時には、長年は兵二千余人を以て勢多の橋を守っておりました。然るに官軍敗れ、車駕延暦寺に御幸されると聞き、長年兵三百を以て京師に帰りましたところ、賊等その帆舟の徴を認めて遮り撃ちました。これと戦うこと数十回、ために死する者半数に達しました。漸く禁門に詣でたところ、宮中に人無きを見て長年は振り返って涙を流し、遂に行在所に詣で、諸将と力を合わせて高氏を討ち、車駕を奉じて京師に入りました。
 ところが高氏、再び来り攻めましたから、またもや車駕を奉じて延暦寺に従い、高氏の兵が東坂を犯すや、長年は脇屋義助と共に撃ちてこれを退け、新田義貞と共に高氏を京師に攻めました。
 長年が白鳥という所を過ぎる頃、路傍の人相語りて曰く、三木一草の中、僅かに一木のみ残って居ると。(三木は結城「キ」、伯耆「キ」、楠木「キ」の三人のこと。結城は結城親光伯耆伯耆守である名和長年、楠木は楠木正成。一草は千種忠顯のこと。)これを聞いた長年は、戦い利あらずと一旦退き、自らの門を背にして奮闘し、従弟信貞および一族二百人と共に戦死したのであります。
(下は長年と名和氏の家紋)

シリーズ『元気が出る尊皇百話』その(十)新田義興

   新田義貞の一族には猛将勇士が多くおりました。義貞の弟脇屋義助は常に義貞と謀を合わせて皇事に尽し、義貞の長子義顕もまた父の意を受け継いで勤皇の旗を翻しました。義助、義顕、共に大いに官軍の為に力を尽しましたが、力及ばずして倒れました。その時義貞の第二子に義興(よしおき)が出まして、一時大いに関東にて官軍を盛んならしめたのであります。
 義興は幼名を徳壽丸といい、母が賤しかったので、父義貞に愛されず、そのために上野に止まっておりましたが、延元二年(1337年)鎮守府将軍源顕家、鎌倉を攻めんとし、軍を進めて武蔵国府に至りましたから、義興は兵三万の将としてこれに応じ、共に鎌倉を攻めてこれを抜きました。それより顕家と西行し、翌年春には上杉実顕を青野原に破りました。後に顕家薨ずるや、その弟少将顕信に従いて京師に入り男山にて賊軍と戦いました。しかし不幸にして官軍敗北しましたから、義興は奔りて吉野の行宮に詣でたのです。
 時に後醍醐天皇引見してその才器を嘉(よみ)し給い、汝宜しく父の家を興すべしと、御前にて冠を加え、義興という名を賜い、左兵衛佐を授け給うたのであります。そこで義興は君恩に感激し、命を奉じて東国に向かい、正平七年(1352年)には兵を起こして鎌倉を攻め、足利高氏の弟基氏と戦い、攻戦数月に亘りて一勝一敗あり、大いに足利氏を悩ましたのでした。
 そこで、足利基氏の家臣畠山国清は、かつて義興の部下であった竹澤良衡という者を義興に近づけ、謀を以て義興を嵌めんとしました。良衡は義兄弟なる高重と謀り、義興を城に招き寄せ、義興はかかる深き企みありとも知らず、僅かに十余人と暁に乗じて鎌倉に向かいました。そこで良衡、高重は予め舟に穴をあけておいてそれに栓をし、矢口渡(やぐちのわたし)に義興以下主従を迎え乗せました。中流に至るや、舟人は突如としてその栓を抜き、自分だけ逃れ去りました。そしてまさに舟の沈没せんとする時に、良衡等は伏兵を並び起こして箙(えびら)を叩いてこれを笑ったのであります。
 義興はその欺かれたるを悔い、切歯して罵りて曰く、汝等不道、予を欺き死に到らしむ。さればこの怨みいかで忘れん。七たび生れ代りて汝らに讐せんのみと。遂に一族十余人と共に自害して相果てました。その時、土肥三郎左衛門、南瀬口五郎、市川五郎の三人は衣を脱ぎ、刀を咥えて水に飛び込み、泳いで岸に達して、敵五人を斬り、十三人を傷つけて遂に戦死しました。そこで良衡高重等は義興の首級を得て、基氏に入間川の陣営にて謁し、大いに褒賞せられました。
 然るに高重、漸く帰りて矢口渡に至るや、舟人たちが酒肴を載せて、大いに酒宴しておりました。そして舟が高重を出迎えんとして、川の中流に至ったと思う頃に、一天俄に掻き曇りて雷雨忽ち至り、渦波は高く湧き、舟はそのために覆って舟人悉く溺れ死にました。それを岸より見ていた高重は驚き畏れ、走り駆けりて引き返すこと数里、一塊の黒雲は不思議にもその頭上を蔽いて去らず、さらにはその雲の中に義興の姿がありありと顕れ、龍の冑を着て、白馬に跨って追いかけられ、己に向かって射かかろうとしているのが見えました。高重は仰天して落馬し、気絶して家に運ばれましたが、それより狂気の如く水に溺れる様を為し、七日目に悶え死んだのでありました。
 一方、畠山国清はその後、陣営中にて義興の恐ろし気なる姿を夢に見て、鬼が義興に従い火の車を挽いて陣所に入ったのを見ました。それと同時に雷火あって入間川の民家三百戸を焼きましたから、国清を始め良衡等は大いに戦慄したのであります。かくして後にも、矢口渡にはしばしば怪火を認めましたから、これ全く義興の霊の祟りを為す所と思い、辺りの人々大いにその霊を畏れ、祠を建てて義興を祀りました。それが今六郷川の畔の矢口渡にある新田大明神であります。七生賊滅とは蓋し此の如きでありましょうか。(画像は、歌川国芳作 『矢ノ口渡合戦にて義興戦死図』)

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『皇統護持論ー安倍首相は皇統護持の実を挙げよ』(平成二十八年二月)

待ったなしの皇統問題

第二次安倍内閣が発足してから三年がたった。元来、安倍首相は保守政治家を以って自任し、自民党が政権を奪還した先の総選挙では、「日本を取り戻す」といって首相に返り咲いた。しかしその安倍首相が、わが国存立の根幹をなす御皇室の問題について、いまだ何らの方策を講じていないのは、わが国の宰相として、いわんや保守政治家として、怠慢の謗りを免れない。

有史以来、我が国の皇位は、男系による継承が貫かれてきた。ところが戦後、昭和四十年の秋篠宮ご誕生以来、御皇室には久しく男児のご誕生がなく、近年に至り、将来的な皇位継承者の不在による皇統断絶の危機が発生した。そうしたなかで、平成十七年、時の小泉首相私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」は、皇位継承資格者を男系男子に限定する現行の皇室典範を改正し、女性・女系天皇を容認する内容の報告書を首相に提出し、物議を誘発した。ところが、翌平成十八年に、悠仁親王ご誕生の僥倖が訪れ、澎湃たる奉祝ムードのなかで、皇室典範改正の議論は沙汰やみになった。しかし、親王のご誕生を以ってしても依然として将来世代の皇位継承資格者が不足している現状に変わりはなく、将来、親王男児がお生まれにならなければ同じ問題の繰り返しになるのであるから、現行典範のもとでは安定的な皇位継承は期しがたい。

本来、皇室典範は皇室の家法であり、我々国民が云々すべきではない。戦前の皇室典範は、皇室の家法であり、帝国議会の協賛を要さない不磨の大典であったが、戦後、アメリカによる占領下で制定された現行の皇室典範は、憲法の下で国会の議決に従う一般の法律に格下げされたため、畏れ多くも我々国民が議論せざるをえなくなった。また、この皇位継承の問題は、男系女系の如何によらず、現在の内親王・女王方が結婚などによって皇籍を離脱されるまでに結論を出さねばならず、事態は一刻の猶予も許さないのである。

有識者会議」の論拠

さて、前述した「有識者会議」の報告書は、典範改正の基本的視点として第一に「国民の支持と理解を得られること」、第二に「伝統を踏まえたものであること」、第三に「制度として安定したものであること」を示し、それぞれ、以下のような女性女系天皇容認の根拠を挙げている。

まず第一の「国民の支持と理解」に関して、現行の男系男子による継承は、非嫡系ないしは傍系の担保がなければ制度としての安定性を保てない。男系男子派は、戦後の昭和二十二年に臣籍降下した旧宮家皇籍復帰を主張しているが、これらの旧皇族は、皇籍を離れて久しく、今上陛下と共通の祖先は約六百前の室町時代にさかのぼる遠い傍系であり、国民が皇族として受け入れるか懸念がある。一方で、現在の「象徴天皇制度」は過去のどの時代よりも皇族として生まれ育ち国民に親しまれていることが重要であり、男性優位の価値観が変容した今日の国民にとって、男女や男系女系の別は重要でない。

次に第二の「伝統を踏まえたものであること」に関して、歴史的にも一旦皇籍を離れた皇族が、再び皇籍に復帰した例は平安時代の二例しかない反面、女性天皇は、八人十代の前例が存在する。皇位継承の伝統の本質は、男系ではなく世襲にあり、男系への固執によって、本質的な伝統としての世襲を危うくするのは本末転倒である。

そして第三の「制度として安定したものであること」に関して、現在の皇室は、非嫡出が認められず、近年急速な少子化が進む社会の動向と相即するかのように、出生数の減少が続いている。こうしたなかで、男系男子を維持しながら、皇位継承資格者を安定的に確保することは不可能であり、その対策として、男系男子派が主張する旧宮家皇籍復帰も、前述した様に国民の理解を得難い。

これに対して、男子護持の立場から、以上を論駁すること以下の通り。

皇室典範は不磨の大典

まず、第一の「国民の支持と理解」に関して、上述したように、本来皇室典範は、皇室の家法であり、我々国民が容喙すべきではない。明治典範の注釈書である『皇室典範義解』は、その序で「皇室典範は皇室自ら其の家法を條定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず。而して将来已むを得ざるの必要に由り其の條章を更定することあるも亦帝国議会の協賛を経るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は粗相に承け子孫に伝ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。又臣民の敢えて干渉する所に非ざるなり」と記されている。また典範第六十二条は「将来此の典範の条項を改正し又は増補すへきの必要あるに当たては皇族会議及枢密顧問に諮詢して之を勅定すべし」とあり、その趣旨について『義解』には「蓋し皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして臣民の公議に付すべきに非ざればなり」と述べている。

こうした性格を持つ皇室典範が戦後は一転して国会の支配下におかれたのである。これは現行憲法で「国民の総意」に基づくとされた「象徴天皇制」の趣旨によるものであるが、いくら「国民の総意」に基づくとはいえ、だからといって、我々国民が今日の価値観や政治的都合で皇位継承のルールを変更し、ご皇室の命運を左右する資格などなく、最終的には当事者たる陛下御一人のご聖断を仰ぐべき問題である。あるいは逆に、一度御聖断が下れば、「国民の支持と理解」は自ずとついてくる。このように、報告書のいう「国民の支持と理解」は典範改正の結果ではあっても要件ではない。

女帝は「前例」ではなくて「例外」

歴代女帝一覧次に第二の「伝統を踏まえたもの」に関して、たしかに我が国史上には、第三十三代推古天皇、第三十五代皇極天皇、第四十一代持統天皇、第四十三代元明天皇、第四十四代元正天皇、第四十六代孝謙天皇、第百九代明正天皇、第百十七代後桜町天皇、そのうち皇極天皇重祚して第三十七代斉明天皇孝謙天皇重祚して第四十八代称徳天皇、かくして八人十代の女性天皇がおはしますが、この八方は何れも男系皇女であり、その内、推古天皇皇極天皇持統天皇元明天皇は前天皇ないしは皇太子の寡婦で即位後も再婚されず、残りの元正天皇孝謙天皇明正天皇後桜町天皇も生涯処女を貫かれたから、少なくとも女系皇子は残されていない。

またそれぞれのご即位の経緯をみても、男系皇子が即位されるまでの臨時ないしは中継ぎの性格が強い。例えば、推古天皇敏達天皇の皇后であり、蘇我馬子による崇峻天皇の弑逆という大変事の後に即位されたが、これは摂政である聖徳太子への譲位を前提にしたものである。また皇極天皇舒明天皇の皇后であり、その御即位は中大兄皇子の年長し給うを待たれたものである。また持統天皇天武天皇の皇后であり、草壁皇子の早世し給いし後、その皇子である文武天皇の成人まで皇位を保たれた。元明天皇草壁皇子の妃にして文武天皇の母君であり、元正天皇はその長女であるが、いずれも文武天皇の遺子である聖武天皇の年長し給うを待たれた。さらに、後水尾天皇の皇女である明正天皇は、弟宮の後光明天皇が十歳になられるのを待って譲位され、後桜町天皇も、弟宮の桃園天皇が若くして崩御された後、幼少の後桃園天皇元服されるまでの中継ぎとして即位されたのである。このように、我が国史上における女帝の存在は、皇位継承の伝統にとって、前例というよりは例外の意味合いが強い。

これに対して、皇籍復帰の前例が平安時代の二例しかないというのは、第五十九代宇多天皇と第六十代醍醐天皇の父子二代のことであり、なかでも醍醐天皇は臣籍の出身であるが、この父子二帝こそ、それぞれ「寛平の治」、「延喜の治」として知られる天皇親政を敷き、皇運隆盛の時代を築いた名君に他ならない。

過去の教訓

また我が国は歴史上、皇統断絶の危機を三度経験しているが、その都度、女帝による中継ぎはあったにせよ、男系による皇統継受を守り通している。まず、最初の危機は、第二十五代武烈天皇から第二十六代継体天皇への継承の際である。武烈天皇には皇嗣がなく、応神天皇五世の末裔である男大迹王(おほとのおほきみ)が継体天皇として即位し、武烈天皇の姉妹である手白香皇女を皇后に迎え入れた。第二の危機は、第百一代称光天皇から第百二代後花園天皇への継承の際である。第百代後小松天皇の即位による南北朝の合一後、後小松天皇の皇子である称光天皇皇位を継がれたが、若くして崩御され、皇子も皇弟もなかった。そこで、北朝第三代崇光天皇の皇子栄仁親王を初代とする伏見宮家の三代目が後小松天皇の「猶子(親戚から入る養子)」として迎え入れられ、後花園天皇として即位された。第三の危機は、第百十八代後桃園天皇から第百十九代光格天皇への継承の際である。第百十六代桃園天皇が若くして崩御し給いし時、皇子の後花園天皇が幼少にましましたため、桃園天皇の姉君である後桜町天皇が中継ぎとして即位された。これは前述の通りである。しかし、その後花園天皇も、在位十年で崩御し給い、皇嗣も欣子内親王お一人であった。そこで急遽、後花園天皇の例に倣い、東山天皇の皇子直仁親王を初代とする閑院宮家から猶子が迎え入れられ、光格天皇として即位された。この光格天皇は、上述した後桃園天皇の遺子である欣子内親王を皇后に迎えられている。

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このように、天皇に直系の皇嗣が女性しかおられない場合、皇位を継がれたのは、直系の皇女ではなくて傍系の男性皇族であり、かつその傍系の皇胤を、血統上の系譜は動かし様もないが、皇統譜の上で直系に組み入れる、もしくは近づけるために、上皇今上天皇の猶子にする、さらには遠い傍系からの継承という印象を和らげるために直系の皇女ないしは女王を皇后に迎えて地位の安定を図る、というのが皇位継承の伝統なのであって、直系維持のために女性・女系天皇を容認するには我が国の伝統に反する態度である。

また、女性天皇女系天皇は、峻別すべきであり、歴史上の例外を認めて女性天皇は容認すべきだという立場も存しようが、以上でみたように、男系皇嗣を前提にした中継ぎとしての即位でなければ皇統護持にとって意味をなさないし、今日の価値観に鑑みて、その女帝が過去の八方のように寡婦ないしは処女としてのお立場を貫かれることは困難である。とすれば、当然に臣籍から皇夫を迎えざるを得ず、その皇夫との間に生まれた御子は女系といえども皇子であることに変わりはないのであるから、またもや女系天皇の是非をめぐる問題が生じるのは必定である。

女系天皇は事実上の易姓革命

実は、かつて明治典範の制定に際しても、女性天皇をめぐる同様の議論が存在した。当初宮内省は、女性・女系による皇位継承を可能とした「皇室制規」を立案したが、伊藤博文の側近で明治憲法の起草に携わったことで知られる井上毅は、この「皇室制規」に反対して伊藤に提出した「謹具意見」のなかで次のように述べている。

「今此の例に依り、かしこくも我国の女帝に皇夫を迎え、夫の皇夫は一たび臣籍に入り、譬へば源の某と称ふる人ならんに、其皇夫と女帝との間に皇子あらば即ち正統の皇太子として御位を継ぎ玉ふべし。然るにこの皇太子は女系の血統こそおはしませ、氏は全く源姓にして源家の御方なること即ち我が国の慣習に於ても又欧羅巴の風俗にても同一なることなり。・・・欧羅巴の女系の説を採用して我が典憲とせんとならば、序にて姓を易ふることも採用あるべきか、最も恐しきことに思はるヽなり。」

すなわち、もし女性天皇が皇夫を迎えられ、その間に生まれた皇子が女系天皇として即位されたとしたら、その時点で皇統は皇夫の姓に移り、易姓革命が起ったことになる。いうまでもなく、我が皇室の尊厳なる所以は、皇統が万世一系であり、一度の革命も経ていないという事実に存する。したがって、女性・女系天皇によって、事実上の易姓革命が起るのであれば、皇位の正統性は失われ、下手をすると、奸臣曹丕によって後漢献帝が廃された後、かつて草鞋売りをしていた劉備玄徳が前漢景帝の子、中山靖王の末裔であることを理由に帝位に就いた例ではないが、遠い傍系の男系が我こそは正統なりと皇位を僭称し出してもおかしくはない。

そこで最後に第三の点に関してであるが、女性・女系天皇の容認は、報告書がいうように「象徴天皇制」の安定をもたらすどころか、かえって我が国に皇位の正統性をめぐる騒乱を惹起し、ご皇室そのものを危殆に瀕せしめる可能性すらある。

したがって、以上縷々述べた理由から、女性・女系天皇は容認すべきでなく、あくまで男系男子を護持すべきである。しかしその際、女性・女系派がいみじくも指摘するように、安定的な男系継承を確保するためには、非嫡系ないしは傍系による継承を担保する必要があるから、戦後臣籍に降下した十一の宮家を皇籍に復帰させるべきである。そして直宮に皇嗣が不在の場合は旧例に倣い、それらの宮家から男性皇族を今上陛下の猶子として迎え入れ、国民と親しみのある皇女ないしは女王を皇后ないしは妃に迎え入れることで皇位の安定を図るのである。先に、現在の内親王ないしは女王が皇籍を離脱されるまでの間に、皇位継承の問題を解決せねばならないと述べたのはそのためである。具体的には、現行典範第九条の規定を改め、天皇及び皇族が全ての宮家から男系の養子を迎えることが出来る旨明記すればよい。

こうした典範の改正は、現行憲法の元で国会の議決を要するものとされているが、前述したように皇室典範は本来、皇室の家法であるから国民の「支持と理解」に依拠するものではなく、また法律としても、制定されたのは現行憲法の施行前であるから、憲法の統制に服するものでもなく、政府がご聖旨を拝して改正を国民に通知すれば足る。

よって安倍首相はいまこそ、天皇国日本の宰相として、そして保守を自任する政治家として、陛下のご聖断を仰ぎ、以って皇統護持の実を挙げるべきである。